すきとおるし
改札を出ると、正面に見覚えのある男が立っていたから驚いた。
男は黒の上着を脇に抱え、不機嫌な様子で「よう」と言って手をあげた。
「なんでいるの?」
少し離れた所で立ち止まってそう聞くと、男はさらに不機嫌な顔になる。
「悪ぃかよ」
「悪くはないけど、来れないんじゃなかったの?」
「休み取れたから」
「ふたりは来ないよ」
「知ってる。連絡来た」
「そう……」
ふたりきりであることに気まずさを感じてしまうのは、一ヶ月前電話で話をした時口論になったからだろう。
顔を背けると、男はわたしの頭をがっしりと掴み、行くぞ、と。まるで何事もなかったかのように促した。そして思いがけない同行者と共に、太陽の下へと踏み出したのだった。
本当は四人で来るはずだった。去年も一昨年も四人だった。ただし去年は三人とも日帰りで、滞在数時間で慌ただしく帰ってしまった。だから今年はどうなるだろうと思っていたら、案の定ふたりは休みが取れないと言う。唯一予定が未定だった男も、口論の末「行かない」と言い放ったのだった。
本当は四人で来たかった。今年もまた。この時期は無理だとしても、もう少し先なら全員揃ったかもしれない。あと数ヶ月伸ばせば……。いや、どちらにしても無理だろう。日程はもう何ヶ月も前から伝えてあったし、みんなの希望も聞いていた、のに。わたしは今日この日のために休みを調整して、バスやホテルも予約した。でも三人は違った。わたしほど今日という日を特別に思っていなかったのだ。
この温度差もまた、違和感のひとつだろう。
この炎天下、全身真っ黒のふたり組が歩いていたらよく目立つ。これから何処へ何をしに行くのかは明白。「そういう」場所に行くのだ。
しかしこの炎天下、全身真っ黒の姿で歩くのはつらい。ホテルを出る前顔に塗りたくったファンデーションが汗でどんどん流れ落ち、それを拭ったハンカチが肌色に染まった。毎年こうだ。結局落ちてしまう化粧なら、最初からしなければいいのに。分かってはいるが、朝早くに目が覚めてしまって、他にやることがないから仕方ない。
「タクシー拾うか?」
見兼ねた男がそう言ったけれど、わたしは首を横に振った。
「荷物持つ?」
もう一度首を横に振る。
数秒置いてから、男ははあっと大きなため息をついた。
「おまえさぁ、まだ怒ってんの? いいじゃねぇか、来たんだから。おまえはねちねち引きずりすぎなんだよ。そんなんじゃ一生彼氏できねぇぞ」
「そうかもね」
「なんだよ、食って掛かってこいよ。昔はすぐ揚げ足とって喧嘩してたのに。年とって丸くなったか?」
「そうかもね」
「おいイチ、いい加減にしろよ」
男が汗だくの手で、わたしの汗だくの腕を掴んだ。男もわたしもあまりの不快さに「うわあ……」と声も漏らしてお互いの手を払う。
「おまえ、ハンカチで腕も拭いておけよ……」
「そうだね……」
言われた通り、ファンデーションまみれのハンカチで腕と、ついでに首も拭いた。首なんて触られることはないだろうけど。
「イチ、おまえほんと丸くなったな。昔はこんなんじゃなかったのに。この一年で何かあったか?」
違うよ、ゆん。この一年で何か変わったわけじゃない。わたしはもう二年も同じ場所に立ち尽くしているだけ。何か変わったというのなら、髪が少し伸びたことと、昔より化粧が薄くなったことくらいだ。
言おうと思ったけど、目的地が見えてきてしまったから、黙って前を向いた。
目的の家のチャイムを鳴らすとすぐに扉が開いて、満面の笑みの女性が顔を出した。
「縁ちゃん、優輔くん、遠い所わざわざありがとう! さ、入って入って!」
「ご無沙汰しています、一花さん」
女性――一花さんに丁寧に頭を下げ、ようやくじりじりと肌を焼く太陽から解放された。
玄関を入ってすぐ左手にある和室。一花さんは「次郎ー、縁ちゃんと優輔くん来てくれたよー」と明るい声でその部屋に入っていく。わたしたちもそれに続いて、久しぶりに友人の顔を見た。去年と、いや一昨年と同じ笑顔だった。
「来たよ、花織……」
そう呟いて仏前に座った。やっぱり笑顔の遺影は良い。暗い気分を和らげてくれる。