すきとおるし


 ゆんの腕が背中に回った。わたしは汗で湿った彼のシャツにしがみつき、その胸に顔を埋める。とくんとくんと、確かな鼓動が聞こえた。
「俺もお前も存在してる。心臓も動いてるし体温もある。ネットだけの存在じゃない。存在しているから、今こうしておまえを抱き締められる」
 聞いた瞬間視界が歪み、大粒の涙をこぼしながらわたしは泣いた。しゃくりあげたりえずいたりしながら、無様に泣いた。思えば泣くのは三年ぶりだった。
「俺、何度も聞いたぞ。二年前から何度も。大丈夫かって。その度おまえは大丈夫だって言った。大丈夫じゃないくせに」
 大丈夫じゃないなんて言えなかった、夢と現実の区別がつかないなんて。日常に違和感を感じているなんて。本名も顔も知らなかった遠くの友人に言えるわけがない。でも、本名も顔も知っている近くの友人にも、話せる内容ではなかった。
 どちらにも話せないからこうなった。どちらかに話すべきだった。どちらかを選ぶとしたら、それは絶対的にゆんたちだった。話せば良かった。だって彼らはインターネット上だけの存在じゃない。ここにはゆんしかいないけれど、きんぎょもスーちゃんも実在している。触れる。鼓動を、体温を感じる。
「ゆん……」
「ん……」
「ゆん、ゆん、花織、死んじゃった」
「うん」
「わたしなんかを好きだって言ったくれた人が、返事する前に死んじゃったよ」
「うん」
「なんでこんなことに……。わたしはただ五人で楽しく過ごしたかっただけなのに。それだけのことが叶わないなんて……」
「うん」
「五人でいるのが駄目なら、せめて四人でここに来たかった、それで五人でしょ」
「うん」
「あんなに毎晩一緒にいたのに、もう年に一回集まることすらできないなんて、そんなのひどい」
「うん」
「わたし言ったよ、何ヶ月も前に。この日はどうって伝えたよ。最初はみんな休み取るって言ってたのに、それが行けるか分かんないになって、結局誰も来なかった」
「俺が来ただろ」
「ゆん一人が来ても、ここにはゆんと花織とわたしだけじゃない」
「そうだな」
 もうここ二年、頭の中がぐちゃぐちゃだった。足の踏み場すらないごみ屋敷のど真ん中で、たったひとつの物を探し出そうとしている。でもそこら中に物が溢れているから、どこから手を付けていいのか分からない。どうしてこんなことになってしまったのか、それすらも分からない。
 ゆんの腕の中で一頻り無様に泣いたら、自分でも驚くほど身体が軽くなった。そのお陰で、ようやく感情が戻ってきた。ゆんの身体に、呼吸に、体温に触れ、ようやくこれが現実だと確実に理解できた。わたしたちは生きている。花織は死んだ。
「花織がいないと、寂しい……」
 信じられないくらいの鼻声で、呟くように言う。
「花織と、もっと一緒にいたかった」
「俺もだよ」
「告白の返事をしなかったこと、後悔してる」
「うん」
「泣きたいくらい悲しい」
「もう泣いてるだろ」
 言いながらゆんは、わたしの背中をたたく。さっきわたしがやったのと同じようにぽんぽんと。あやすように。宥めるように。
「おまえの背中、びしょ濡れだぞ」
「うるさい、デリカシーなし男。あんたの胸も同じだよ」
「ぶつかってきたのはおまえ」
「抱き締めたのはあんた」
「あやしてやってんだ、感謝しろ」
「頼んでないし、多分シャツにファンデーションついた」
「勘弁してくれ……」
「ふふ」
「はっ、馬鹿だなあ」
「お互いにね」
 ゆんと笑い合ったのは、二年ぶりだった。
 ようやくあの言葉を口にする気になって、汗だくの身体を離す。そして墓石に向き直って、息を吸い込んだ。
「ごめんね花織。好きな相手がいる。花織とは付き合えない」
 二年越しの返事だった。
 結局はわたしの自己満足だ。花織が聞いているわけでもない。もし答えがイエスだったとしても付き合えるわけでもない。ただ後悔を消し去るためだけの、わたしの自己満足。
 それでも気分はここ数年で一番すっきりしていた。
 またやけに冷たい風が吹いたけれど、墓地にいる間、もうその風が吹くことはなかった。



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