「先生、それは愛だと思います。」完
「いやー、遅れてごめん。外が渋滞していてね」
自分の不安定な気持ちにぐらぐらしていると、仙田先生が慌てた様子でマンションに入ってきた。
先生はグレーの厚手のコートをハンガーにかけて、参ったよ、と眉をハの字にして苦笑した。
「外でなにか事故でもあったんですか?」
「どうも二丁目の交差点で、乗用車と自転車がぶつかったらしくてね……、被害者は主婦だったらしいけど」
「主婦……」
なぜかその単語を聞いたとき、少し嫌な予感がした。
現在時刻は午後十八時、母がちょうど会社から帰る時間だったから。
「先生、その被害者の方の容体は……」
「人だかりで良く見えなかったけれど、救急車で運ばれていく様子を見た限り、あまり軽傷では無いようだったよ」
「そうですか……」
どうしてこんなに胸がざわつくのだろうか。
私はこっそりスマホを鞄から取り出しロックを解除したが、なにも連絡は届いていなかった。
それでも嫌な胸騒ぎは止まらず、私は母にメッセージを送った。
『今日事故があったみたいだね、道混雑してた?』
しかし、そのメッセージを送ろうとした瞬間、知らない番号から電話がかかってきた。
「え……、あ、すみません先生、今電話がかかってきてしまい……」
「ああ、出て大丈夫だよ」
「すみません」
ドキンドキンドキンドキン、と、心拍数が急激に上昇していく。
私は、震えた手で通話ボタンを押した。
『文月ことりさんの携帯でお間違いないですか?』
「あ、はい……」
『文月あつこさんの娘さんで合っていますか?』
「はい、娘ですけど、母になにか……」
『落ち着いて聞いて下さいね。阿佐川二丁目の交差点での事故で、文月あつこさんと校則違反をした乗用車がぶつかり、現在文月さんは病院に搬送されています』
「え……」
『頭を強く打ったようで、今手術をしています。搬送先は、当院阿佐川病院でして、住所は……』

……待って。
だってお母さんは、昨夜私に夜食を作ってくれて、今日の朝もいつも通り朝ごはんをもりもり食べて出て行った。いつもとなにも変わらない日常が始まっていた。
受話器越しに聞く〝文月さん〟という人名が、まるで他人の名前の様に聞こえて、全く実感がわいてこない。

嘘だ、嫌だ、嘘だ、嫌だ。
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