「先生、それは愛だと思います。」完

「ことりの名前を呼ぶたびに、守らなきゃって、身が引き締まるよ」
「はは、お父さんの戦略通りですね」
「もう高橋になるから、文ちゃんとは呼べないからね」
「あっ、そうか、なんだかそれも少し寂しいで……」

そう言いかけた瞬間、先生がちゅっと軽いキスをしてきた。
その直後にエレベーターのドアが開いて、先生はなにごとも無かったかのように先に降りた。
私は、一瞬なにが起こったのかわからず茫然としてしまったが、慌てて先生の後を追いかけた。

「な、なにするんですかいきなり」
「結婚してもこういうドキドキは必要だと思って」
「心臓に悪いからやめてください色んな意味でっ」
「はは、文ちゃんはいつも反応が面白いな。飽きないよ本当に」

もう、と唸ってから軽く背中を叩くと、先生は営業部のドアの前で立ち止まった。

「じゃあ、入ろうか、奥さん」
先生はドアノブに手をかけて、いたずらに微笑んだ。普段私のことを奥さんなんて呼んだりしないのに。
「からかうのやめてください、本当に」
むすっとした表情で言い返すと、先生はハイハイと言って、私の頭を一度ぽんと優しく撫でてからドアを開けた。
なんだか胸の中がくすぐったくて仕方ないけれど、私はこの人の背中にずっとついていっていいのだと思うと、胸の中がじんわりと温かくなった。

……そういえば、この前同僚に、婚姻届けを書いた時が一番泣けた? と聞かれたが、私が一番胸を熱くしたのは、間違いなく、先生が私の父の墓前で結婚の報告をした時だと言える。
手を合わせ目を閉じて、真剣な表情でお墓の前に屈む彼の姿を見て、ああ、私はこの人と一生を添い遂げるんだな、となんだか妙に実感してしまったのだ。
まるで父がそこにいるかのように深々と頭を下げてから言った彼の台詞を、私はきっと一生忘れないだろう。
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