そこにアルのに見えないモノ

「あ、ありがとうございます!」

何の疑いも、怖さも感じず決めてしまった。
善は急げとばかりに、翌日からBaronへ行くようになった。会社はなるべく定時に退社するようにした。

制服のような感じで、黒のタイトスカートに白のワイシャツ、黒のベスト。総一郎さんとお揃いだ。当たり前だが、総一郎さんはスカートではない。
テーブルの上を片付けたり、洗い物をしたり、おしぼり、灰皿のお世話など。そういった仕事から始めた。
私はお店では“カオルちゃん”になった。

総一郎さんは、頃合いを見て賄いも出してくれた。随分遠慮したのだが、どうせ俺も摘むし、帰るまで腹が減るだろと言って気遣ってくれた。

「カオルちゃん、最初から頑張り過ぎないように。適当だよ、適当」

「はい、総一郎さん」

マスターってのは性に合わないから、名前で呼んでくれ、って言われて、ずっとそうしている。


「いいね〜。羨ましいよ、総君。若い子に、総一郎さん、な〜んて呼ばれてさ〜。
僕もカオルちゃんに呼んでもらっちゃおうかな〜、アキヒコさん、って。ねぇねぇ、カオルちゃん、呼んでみてよ〜」

私はカウンターの中で隣の総一郎さんに目線を送った。小さい声で、呼んでやってくれ、と言われた。
……では、

「…アキヒコさん、飲み過ぎじゃないですか?」

声を掛けてみた。

「いいね〜。嬉しいな〜カオルちゃ〜ん。大丈夫だよ〜」

大丈夫じゃないな…。なんかあったのかな、よれよれになってるし。

「さあ、アキヒコさん、奥様が待ってるからそろそろね」

総一郎さんが帰りを促した。

「そうだ、総君。仕事がなんだ。嫁がなんだぁ。…帰るぞー」

言ってることは解らない、何故だか急に勢いづいて、帰り支度をし始めた。

「じゃあ。おっとっとっとぉ。はは〜、おすみっ。
総君、カオルちゃ〜ん。またね〜」

手を振り振り帰って行った。

「……まあ、色々あるさ。だから、こんな店に寄りたくも成るんだけどね」

見送りながら総一郎さんが呟いた。

色々…。
人それぞれ、色々ある。表面ではみんな何も問題ないように見せて…。
仮面をつけて暮らしてる。
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