その愛の終わりに
「奥様、洋書を嗜まれているのですから、外国語はお得意なんですよね?」
「ええまあ……英語、フランス語、ロシア語でしたら読み書きは出来ますわ。ドイツ語はちょっと怪しいけれど、まったくわからないわけではありません」
「それだけ出来れば充分です。今、洋書を和訳してくれる人を探しているんです。良かったら手伝ってくれませんか?」
「素敵!」
まだ読んだことのない本に出会えるかもしれない期待に目を輝かせ、美都子は身を乗り出した。
「やります!ぜひお手伝いさせてください!いつからお手伝いすればよろしいのかしら?」
「ようやく笑ってくれた」
「え?」
美都子よりも数歩前を歩いていた山川が、不意に振り返った。
先ほどまでの不機嫌そうな雰囲気は消え、彼は柔らかく微笑んでいた。
「初めて会った時、あなたは好奇心に目を輝かせ、無邪気に笑う人だった。それが最近ではすっかり笑顔がなくなっていたから」
温かい眼差しに絡めとられ、心臓が激しく動き出す。
美都子は自分の頬があっという間に赤くなっていくのを感じた。
「……そう仰ると、まるで子供みたいね」
消え入りそうな小さな声も、山川は聞き逃さなかった。
「私は最初から、あなたはどこか幼さの残る人だと思っていましたよ」
「まあ!失礼ね!」
頬を膨らませ声を荒げたその時、美都子の額に一滴の雫が落ちてきた。
美都子と山川が同時に空を仰ぐと、鉛色の雨雲が急速に広がり、一滴また一滴と雨が降りはじめた。
「失礼します」
そう声がするや否や、美都子の視界はいきなり黒く塞がった。
薄く白檀が香り、山川の首に巻かれていたマフラーで頭を包まれたのだと認識する。
「走って!近くに宿があるから、そこで雨宿りしましょう」
右の手を引っ張られ、美都子が転ばない程度の速さで山川は走り出した。
マフラーがずり落ちないように左手でしっかりと押さえながら、美都子は必死で足を動かした。
走ったのなど、女学校に通っていた時の運動の時間以来で、思うように足が動かない。
美都子がどんどん重くなっていく足を無理やり動かすこと約五分弱、山川の走る速度が緩くなり、二人は旅館に辿り着いた。
山川にマフラーを被せてもらったとはいえ、美都子のワンピースは両袖と裾が濡れて重たくなっていた。
しかし、山川はそれ以上に酷い有り様で、着物全体が水分を含み変色している。