その愛の終わりに
山川の診療所を訪れるのは、これで三回目であった。
今回は初めて、山川が生活している二階に足を踏み入れた。
医学書や洋書など、本棚に入りきらなかった本が机の上に積み重なり傾いている。
書物が多いが、それ以外の荷物は極端なほどに少ない家であった。
先に二階に上がっていた美都子は、家主が帰ってくるまでささやかな散策を楽しんだ。
「二階に人をあげるのは初めてなんだ。物は多いが、汚くはないと思う」
一階から戻ってきた山川の弁解に口元が緩む美都子だったが、彼が下の診療所から持ってきた何本かのボトルを見るなり、笑みがなくなった。
「杏仁水だ。少量なら咳や痰に効く良薬、大量に煽ればシアン中毒で死に至る劇薬だ」
「どれくらいで効くの?」
「早ければ二十分弱。遅くとも数時間のうちに」
「……コップをください」
山川に並々と注がれたそれは無色透明で、一見普通の水であった。
しかし杏子ともアーモンドともとれる独特の香りが、いかにも薬らしい。
「遺書は書かなくていいのか?」
「必要ないわ。それよりも、死ぬ瞬間まで手を握っていて欲しい」
美都子の右手に、山川の左手が被さる。
二人はどちらともなく、コップを持ち上げた。
ほとんど同時に杏仁水を飲み干すが、その味の酷さに美都子は盛大に咳き込んだ。
「凄い味ね。口の中が気持ち悪いわ」
「その気持ち悪さを助長させるようですまないが、もう一杯」
再びコップに注がれたそれに、美都子は露骨に嫌な顔をしたが、またもや一気に飲み干した。
途端に、強烈な吐き気が襲ってくる。
口を開くと吐いてしまいそうで、美都子は歯を食い縛った。
ちらりと横を見ると、杏仁水の効きが悪かったのか山川が三杯目を注いでいるところだった。
ドクドクと心臓が激しく脈打ち、暴れている音がはっきりとわかる。
これに耐えていれば、そのうち意識を失うのだろう。
そして意識を失えば、あっという間にあの世だ。
しばらく無言でいた二人だが、三杯目の杏仁水を空にした山川が美都子の右手を引っ張った。
力強く美都子を抱きしめるが、その両手は震え、息は荒い。
「美都子、愛している」
愛している、とうわごとのように何度も呟く声は、今までのどんな瞬間よりも熱がこもっていた。
目眩も息苦しさも、きっと杏仁水のせいだけではない。
「私もよ……雄二郎さん、生まれ変わったら次こそ、一緒になりましょう」
最後の力を振り絞り、美都子は両手を山川に伸ばした。
美都子の唇が山川のそれと重なる瞬間、彼女の視界が大きく揺れ動く。
ぐるぐると回る世界の中で、美都子は必死で手を伸ばし続けた。