好きだと言ってほしいから
好きだと言ってくれない彼
 暗い車内の時計を見ると夜九時五十五分。ハザードランプのカチカチという音が狭い密室に規則的に響いている。続いてシートベルトを外す音。私は膝の上で両手をギュッと握り締めた。

「麻衣(まい)?」

 ハンドルに右手をかけたまま、彼は体半分、私の方を向くと宥めるような声を出す。

「どうした?」

 私はふるふると首を振った。

 彼はそっと溜息をつくと左手を助手席のヘッドレストに回す。ハンドルから離した右手で私の長い髪を優しく梳いた。

 落ちる影。重なる唇。
 彼は軽く私の唇を味わった後、もう一度ゆっくりと私の髪を梳きながら囁いた。

「おやすみ、麻衣。また明日」

* * *

 自宅から電車で一時間。駅からバスでさらに十五分。なんとも不便な場所に私の会社はある。

 片側四車線の大きな国道に面したビルは緩やかなカーブを描いた美しい建物で、壁一面に取り付けられたガラスが今日も朝日を眩しく反射している。時間が経つとこのガラスに映りこんだ太陽は建物のカーブを滑らかに移動し、定時になる頃にはそこに綺麗な夕日を映し出す。私が一番気に入っている景色だ。

 バスを降りた私は、いつものように見事な自社ビルを眺めた。
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