カルテットリバーシ
「…ゆきが、いたんさ」

 言葉に、緋色を見上げる。
 どこを見ているのかわからない辛そうな目は、きっとそのゆきさんの幻想を見ているんだと思った。

「…………」

 何かを言おうとした緋色が、まるでそれを認めたくないように口をつぐんで言うのをやめた。
 何も音の響かない静寂に、緋色の何度も続く溜息だけが広がる。

 そして。

「…男と、歩いてたんさ」

 ぽつりこぼす言葉に、明らかに怒りが混じっていたように聞こえた。
 こんなに緋色を怖いと思った事はなかった。
 相変わらずどこか睨みつけたままの視線も、いつもより低いトーンの声も。

 喧嘩をしている時の緋色は見たことなかったけれど、きっとこんな緋色なんだろうと思った。王子様なんかとはかけ離れた、不良の緋色。喧嘩をする、緋色の姿。

「ち、…違うかもしれないよ、ほら、男友達、とか」

 なんとなくここは否定した方がいいのかなと思ってそう言ったものの、緋色の辛そうな表情は変わらないまま、もっと濃くなって行き。

「…男友達とは、キスなんてしないさね」

 今度は否定する事が、出来なかった。

 そんなものを目撃してしまって、荒れて、喧嘩をしに行ったんだと理解した。

 どういう声を掛ければいいんだろう。

 “大丈夫だよ”なんて軽率な事も言えない、“あきらめなよ”なんてもっと言えない。“私がいるじゃない”も違う。“落ち着いて”なんて言ったらきっともっと怒る。
 わかんない、掛ける言葉が浮かばない。

 私の心とは裏腹に緋色は、白く筋が見えるほどにきつく拳握りしめ震わせ。

「…悲しみと怒りは紙一重さね。怒りの理由なんて、9割悲しみさ」

 言う言葉に、私は恐怖心を募らせた。
 何を言っても怒らせてしまう気がした。

 黙ってただ緋色を見つめて。
 でも、怯えているなんて思われたら傷つけてしまいそうで、ただ漠然と、床から緋色を見上げていた。

 緋色と目が合う。

 睨みつけているはずなのに、眼光鋭くこちらを見ているのに、その目の奥の奥の方。どうしたら人間がそんなに悲しい目を出来るんだろうと思う色をしていた。

 思わず私は悲しい顔をした。

 無意識だったけれど、緋色の悲しみが流れて来るように、悲しい気持ちが一気に押し寄せてきた。

「……っんで…セレンがそんな顔するんさ…!」

 途端立ち上がった緋色のイライラに、「あっ」とした顔をするが早いか、両肩を押されバランスを崩したまま床に後頭部を打ち付けて仰向けに世界が回った。
 背中と後頭部に鈍痛が走って顔を歪める。
< 50 / 85 >

この作品をシェア

pagetop