それはいつかの、
音を立てないようにそっと窓を閉め、僕は仕事へ出る準備を始めた。恐らく君は十分もしないうちにいなくなるだろうし、そうすれば二十分後に出る僕とも鉢合わせることはない。今までの二年間、ずっとそうしてきたのだから。
軽く早めの夕食をとり、身支度を済ませる。戸締りを確認すると僕は荷物を持ち、鍵をかけて家を出る。いくら人通りが少ないとは言え、いや少ないからこそ、戸締りはしっかりしなければならない。
ちらり、君のいたビルの屋上に目を向ける。君の姿は案の定なくて、僕は少し安心したような気持ちになる。いつもと変わらないこと、それが僕にとっては大事なのだ。
いつもと変わらない日常というのは、尊く儚いもの。人もまた、同じ存在。故に日常が変わると人が変わり、人が変わると日常が変わる。二つは相互関係にあり、互いを切り離すことなど出来ないに等しい。
僕は変わることを恐れているのだ。五年前のあの日から、日常が変わることを恐れている。
ぽつり、君の名を零した。その響きに泣きそうになりながら、僕は自分自身を自嘲するような笑みを浮かべる。僕はまだ、君に関する色々なことを忘れ切れずにいる。否――――忘れては、ならないのだ。
僕が君を忘れることは許されない。忘れたくても忘れられない。忘れないで、というのが、最後の約束だから。
つきんと痛む胸を無視し、僕は仕事場へと急ぐ。気にしたらいけない、こんなことすらいつものことだ。ふる、と一つ首を振って、沈みそうになる思考を振り払うことにする。
コンビにまで後数十メートル。急ごう、と思い顔を上げて――――見えた人影に、僕は足を止めた。
「――――ゆ、か……?」
まさかと思いながら、僕は君の名前を零す。放心したように、君はぽつり、名前を落とした。
「紘……?」
違う。僕は、僕は紘じゃない。
「ねえ、本当に紘なの……?」
違う、ちがう――――違うんだ。
紘は、僕じゃなくて――――僕の、兄だ。