さくらのこえ


「春姫、加減はどうだ」

 和春は今日も早々に仕事を済まし、帰宅すると真っ直ぐに春姫のところへ向かう。
 幾分か顔色が良くなってきたような春姫は小さく笑って頷く。

「まだ安心はできないからな。安静にしてると良い」

 和春にとって春姫の素性など最早どうでも良かった。彼女がいてくれるだけでその場が優しい空気に満ちる。
 婚期を迫られる時期に春姫が現れ、和春は密かに運命だと思っていた。

「そうだ。今夜春宮殿で、春の宴が催されるんだ。だから今日は遅くなると思う。先に休んでいてもらって構わない」

 ほんの一瞬、春姫の瞳が揺れた。
 その動揺が一体何なのか和春は気になってしまう。

「どうかしたか?」

 首を振って何でもないと笑ってみせる。

 その容貌はやはり美しかった。

 春姫は手元に置いておいた紙を手に取り、字を綴る。

『和春様は春宮様と親しいのですか』
「まあ、そこで仕事をしているからな。最近は暇つぶしによく呼び出される」
『信頼されていらっしゃるんですね』
「そうかもしれないな。あそこは敵が多いから」

 いくら春宮と呼ばれていても他の親王を支持する者は少なくない。

『春の宴のこと、分かりました。お言葉に従って先に休みますね』
「ん。俺としては春姫と月見でもしていた方が良いんだがな。付き合いもあるし残念だがよろしく頼む」

 返事に困ったのか、曖昧な表情で和春を見る。和春も無意識で言っていたため、自分の発言に気づくと顔を手で覆った。

「あ、いや、深い意味は無いぞ。まあ……もう少し暖かくなったら本当に月見をしよう。ここからの眺めは素晴らしいんだ」

 誤魔化すように、だけど率直に和春は思いを春姫に向ける。戸惑いがちに視線を彷徨わせ、春姫は頷いた。
 ここに来てから春姫は周りの扱いに戸惑っていた。あれこれと見ず知らずの自分に世話を焼いてくれることに申し訳なさを感じてしまう。藤子と呼ばれていた時とは全く違う扱いで、お礼を言いたいのに、自分の声は誰にも届かない。

 目の前に座る男性は、真っ直ぐ春姫を見つめてくれる。初めて抱き締められた時は驚きはしたが、その温もりはずっと欲しかったものだった。
 この人が私の想いの先であればこんなに幸せなことはなかっただろうと暖かな記憶が浮かぶ。

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