さくらのこえ
「いつか何処かで巡り会えたら、その時は離しはしないだろう」
「……きっと見つかりますよ」
「そうだな……そう願っているよ」
「よし、酒を飲みましょう!こういう時は飲むに限りますよ!」
努めて明るい声で、中将が話題を変える。その後はもうその話は持ち上がらず楽しい宴が続いた。
「今日はご苦労だったね。帰ってゆっくり休むと良い」
「春宮様も。それでは失礼いたします」
宴の後、和春は後始末を終え、春宮へと報告を済ませた。帰って一目だけ春姫を見て寝ようと春宮殿を退出する。
「やあ、まだ元気そうだな」
「中将様……お帰りになられたのでは?」
「いやいや飲み足りないに決まっているだろう。付き合え」
「遠慮します」
「硬いことを言うな。聞いてほしいことがあるんだよ」
酔いの中に真剣さが映り、和春はしばし逡巡する。なんだかんだ言っても中将は適当な男ではないのだ。
「手短にお願いしますよ」
「俺も妻に怒られたくはない。心がける」
こうして二人は中将の家へと足を向けた。
床につこうと春宮が寝殿に向かっていると女の声が聞こえてきた。何やら怒っているようだ。普段なら気にも止めないのだが、今日は違っていた。
気付かれないように静かに近づく。ちらりと中を覗くと、紅子と紅葉の姿があった。
「今日の宴を見ても貴女はまだ認めないの?」
「はい。私の主人は藤子様です。たとえ紅子様が春宮様のお傍に一番近くにいようと関係ありません」
「藤子藤子藤子とうるさいわ!貴女を奪って私は全て手に入れたはずなのに……どうして皆あんな女を大切にするの!」
「藤子様は誰よりも優しい方なのです。何も語らずとも皆その優しさを知っているのです」
「もういいわ……貴女がいくら思おうともういないんですもの。紅葉は私に仕えるしかないのよ。絶対に主人は私よ」
「ご自由にどうぞ」
聞こえてきた会話に春宮は驚きを隠せなかった。「藤子」、その名前は確かに愛しい彼女の名前だったのだ。自分の直感は間違っていなかったと喜びを噛み締める。
しかし同時に行方が知れないという事実も重くのしかかった。手掛かりも何もなかった。
話は終わったようで紅子は退出する。残されたのは紅葉だけ。そこで春宮は紅葉に話を聞こうと足を踏み入れた。
「紅葉と言ったね」
「あ、っ……春宮様!」
「良い、聞こえてはいたが咎めるつもりはない」
「失礼……いたしました」
会話を聞かれていたことに恐ろしくなったのか紅葉は顔を伏せたまま動かない。
「ここにいるのは私とお前だけだ。紅葉、お前は十年前に私と会ったことがあるな?」
「……はい」
「顔を上げなさい。お前を責めるつもりはないよ。きっと事情があるのだろうから」
「春宮様……っ、私は……どうしたら良いのでしょう。愛する主人の行方が分からないのに、探しに行くこともできません。同じ左大臣家の娘なのに、藤子様がお可哀そうでとても耐えられないのです」
紅葉は藤子を想う気持ちが強いあまりに涙がとめどなく流れ落ちる。そんな紅葉を春宮は哀れだと思った。
「十七年も側に仕えていたのだから泣くのも無理はない。私もお前と同じ気持ちだ。彼女をいつまでも待ち望んでいる」
「春宮様……」
「だがそれはもう叶わないだろう。既に左大臣家の娘である紅子が私の隣に居るのだからな」
諦めの混じった声音に紅葉の表情は悲嘆に満ちる。抗えない運命に涙は止まらない。
「今宵は酔いすぎた。酔いすぎたついでに彼女のことを話してはくれないか。別れてからの十年はあまりに長い」
「……はい……はいっ……」
ぼんやりとした明かりの中で、その日は夜が明ける前まで藤子の話が続いたのだった。