さくらのこえ


 翌朝早く、和春は中将の邸を出た。

「昨夜はありがとうございました」
「俺の方こそ楽しかったよ。また飲もう」
「ええ」

 気が急かされるままに自邸へと戻る。邸の前には既に長身の男が和春を待っていた。

「紫じゃないか。こんな朝早くどうしたんだ」
「どうしたんだ、じゃないですよ。昨夜は連絡も寄こさないで何してたんですか。こっちは大変だったんですからね」
「連絡しなかったことは謝るよ。急な誘いだったんだ」

 言い訳をしても紫の態度は変わらない。とは言え紫はいつも同じような態度なので大して変化などないのだが。

「朝から驚かれるかと思いますが、和春様が春の宴に赴いた後、春姫様がお倒れになったのです」
「春姫が?それで?」
「特に病気などでは無かったようですが、何やら精神的なものらしく医者も今はどうにもできないと」
「今は眠っているのか」
「はい。ただ、ずっとうなされているようで……女房どもも困っておりました」

 和春は車を降り、一目散に春姫の部屋へと向かう。自分が居ない時に春姫はきっと心細かったに違いない。昨夜の真実を知った後では尚更和春の心は痛んだ。

「あ、おはようございます和春様。お待ちしておりましたよ!」
「すまない遅れて。春姫の様子はどうだ」
「あの通りでございますよ。夜通し見守っておりましたがひどい汗で……かといってお目覚めにもなりませんし……」
「ご苦労だった。今日は一日休むと良い。他の女房を起こしておくれ」

 女房から話を聞き、そっと春姫の元へと寄る。額から大粒の汗が流れており、眠る姿は少し苦しそうだった。

「春姫……俺は……」

 もう言い訳のしようがない程に和春の心は春姫に奪われていた。他の誰が春姫を望もうと、譲れない程に。
 そっと汗を拭いながらその額に口づけを落とす。

「好きだ」

 自然と零れ落ちたその言葉は春姫に届いたのか、ほんの少し呼吸が落ち着いたように思えた。

「お前の目が覚めたら真っ先に言おう。だから早く……」


 遠くの方で誰かの声が聞こえてくる。薄暗くて周りはよく見えない。手探りで辺りを触ってみるが掴むのは淀んだ空気だけだった。
 次第に視界が明るくなると、目の前には母の姿があった。駆け寄ろうと近づくと母が大きな声を出して私に被さってくる。途端顔にかかったのは真っ赤な生温い液体だった。恐ろしくて、けれど身動きなんて取れなくて、私を抱き締める母の手が冷たくなったことにすら気づけなかった。
 気づけば母を襲った男は倒れており、母は依然として動かなかった。すぐさま紅葉と母の女房たちが駆け寄って私を母から引き離す。その時漸く母が死んだのだと理解した。
 泣いたってもう戻ってこないのに私はずっと泣いていた。声を枯らすまで泣いてしまったせいか声を失ってしまった。そして療養で訪れた山荘で、出会ったのだ。私と同じように大切な人を失くした彼と。

 記憶が優しいものへと移った時、春姫は目を覚ました。

「春姫様!」

 目を開けると心配そうに覗き込む女の人の姿があった。しばらくぼんやりとしていたが、そこが和春の邸であることに気づいて身体を起こす。

「無理なさらないでくださいませ。まだ体調も優れないでしょうから」

 昨夜のことを思い出して、春姫は恐ろしくなった。訳も分からず取り乱した姿を彼女たちに見せてしまったのだ。どう思われても仕方が無かったが、春姫は落ち着かない。

「和春様も心配していらっしゃいましたよ。今日は早く帰ってくるそうなのでお召し物も替えましょう」

 促されるまま新しい着物に袖を通す。どうやら眠っている間に汗をかいたようで前に着ていたものは汗を吸って少し湿っていた。

「そうそう、春姫様がお好きだろうとお菓子を用意したのです。いかがです?」

 あれこれといつものように世話を焼く女房たちに恐縮しながら受け入れることにしたようで、頷いて差し出されたお菓子を手に取る。
 口に含んだそれはほんのりと甘く、疲れていた春姫の身体を癒やしてくれるようだった。



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