さくらのこえ
寝所へ入り、春姫を下ろす。どちらもお互いと離れ難く、沈黙が続いた。明日からは毎日のように顔を合わせることが出来ないのだ。
何も言わず、和春はそっと彼女を抱き締めた。
「今夜だけ、このまま寝ても良いだろうか」
甘えるように春姫に問いかける。春姫の返事は既に決まっていた。
そのまま和春に抱き締められて、春姫は目を閉じる。誰かの温もりを感じながら寝ることは、春姫にとって何よりも幸せなことだった。自分の存在を肯定してもらえるような気がして、春姫はその日、いつも以上に安心して眠ることが出来た。
夜が明け、辺りの活動がまだ始まらない頃に、和春は別荘を立つ。朝まであった温もりを手放すのは勇気がいったが、今はまだ我慢の時だと己を律し、車に乗り込んだ。春姫を起こしてしまうのは可哀相だと思い、起こさずに行くことにした。
「春姫が目覚めたらこれを渡してくれ」
昨夜共に連れてきた女房に、綺麗な淡い桃色の文を託した。そして、和春を乗せた車は静かに進み始めた。
春姫が肌寒さを感じ、目を開けると隣にはあったはずの温もりが消えており、春姫は辺りを見回す。自分が寝ている間にどうやら自宅へと戻っていったようだった。
「お目覚めですか春姫様」
様子を見に来た女房が春姫に声をかける。
「和春様でしたら朝早くにここをお立ちになられましたよ。これを春姫様にと渡されました」
和春が何も言わずに立ってしまったことを残念に思いながら、昨夜交わした約束をすぐに実行したのだろう和春の手紙が渡された。
淡い桃色の紙は、春を思わせる柔らかさを感じる。そっと折りたたまれた手紙を開くと、端正な字で文字が綴られていた。
『何も言わずに立ったことを貴女はどう思われるでしょうか。そればかりが心残りです。早く日が経って、すぐにでも会いたいと思う私の気持ちを忘れないでください。』
春姫はその手紙を大事そうに何度も何度も眺めた。和春の想いが文字となって、確かに存在するものとして春姫を安心させていた。
すぐに筆を取り、返事を書こうと紙を取り出す。今まで誰かに想いを伝えることは一回も無かった。これからもあるはずのなかった出来事が、和春と出会ったことで次々と起こる。そんな嬉しい想いをどうやって綴れば彼に届くのか、春姫は考えることも楽しい様子で机に向かっていた。
「お返事が書けたらお呼びください。朝食の用意をしてまいります」
女房の声に少しだけ我に返る。春姫は初めてのことで興奮していたところを見られ、何だか気恥ずかしそうにまた机に向かった。