さくらのこえ

 何か音が出るのではと力を入れて言葉を発するが、息だけが静かに抜けてゆく。
 思い出すだけで喉が締め付けられるようだった。声を出そうと思っても息が抜けていくだけで何も伝えることができなかった。

 夜になるまで紅葉は戻ってくることはなく、藤子が一人で寝所の用意をしている頃にやっと戻ってきたのだが、紅葉の顔はどこか沈んだ様に見受けられた。

 何かあったのか、藤子が問いかけようとすると御簾の外に別の人影が映る。

「藤子様、あの……申し上げなければならないことが……」
「早くしなさい紅葉」

 その凛とした声に藤子の体が強張る。

「はい……あの、明日から……明日、から、私は……」

 言い淀む紅葉に胸騒ぎを感じた藤子は彼女の元へ足を進めようとした。途端、御簾がめくられ再び藤子の体は止まる。
 目の前に、明日入内する紅子が静かに立っている。

「貴女が言えないのなら私から伝えるわ。紅葉は明日から私とともに宮中に行くことになったの。彼女は優秀だから貴女みたいな何の役にも立てない者のところにいるよりよっぽど良いと思って、私が引き抜くことにしたわ。いいわよね」

 強張った体を懸命に動かして、藤子は大きく首を振った。唯一の心の支えがいなくなってしまうことがどれほどのものか、藤子はそれだけは嫌だと紅葉の傍へ駆け寄り、力一杯抱きしめる。

「あら、強情ね。紅葉は承諾したと言うのに」
「違うんです!藤子様これは「黙りなさい」

 ぴしゃりと紅葉の声を遮る紅子の声。続けて紅子は藤子に告げる。

「紅葉は宮中に上がれば、ここよりもっと良い暮らしができるのよ。貴女のような愚図の傍よりはるかにいいじゃない。紅葉のことを想うなら手放してやるべきね」

 薄暗くてよく見えないが、藤子には紅子の表情が容易に想像できた。しばらくの沈黙の後、震える手を紅葉から離す。

「藤子様……」
「よく分かってるじゃない。そこまで馬鹿じゃなかったってことね。さ、行くわよ紅葉」
「藤子様、これだけは忘れないでください。私は貴女の味方です。何があっても……!」

 そんなこと、ずっと前から分かっている。たとえ辛い別れであっても、紅葉には笑顔でいて欲しくて、藤子は悲しいくらい美しく微笑んだ。




 御簾から差し込む月の光は、いつもより煌々と部屋の中を照らし、藤子の瞳から零れ落ちる雫さえも照らしていた。
 屋敷はいつもの夜より賑やかで余計に藤子の周りが静かであると感じさせられる。



 やがて宴も終わり虫の声だけが響き渡るその夜、藤子は誰に告げるでもなく屋敷から姿を消した。


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