さくらのこえ

「入るぞ」

 一度深呼吸をして冷静な声で御簾をめくる。
 いると思っていた床には姿がなく、辺りを見渡すと部屋の反対側に彼女は座っていた。見えるのは後ろ姿でどんな表情なのか分からない。

「和春様、あの……」

 近くにいた女房が和春に小さく耳打ちをする。

「目が覚めてから何もおっしゃらなくて、ずっとあのように外ばかり眺めていらっしゃるんです。いかがいたしましょう?お身体も心配です」
「そうか……。何か羽織るものはあったか」
「あ、こちらに。姉上様の置いて行かれたものですがとりあえずは」
「分かった。少し下がっていなさい」

 その場に和春と彼女だけになると、和春は小袿を手に取り、つかつかと歩み寄る。

「風邪を引くぞ」

 やや乱雑に彼女の肩に小袿をかける。男の声に驚いたのか、ハッと和春を見上げる。
 その姿に、和春は息を呑んだ。

「……泣いているのか」

 答えるでもなく、ただ静かに目を閉じる。その涙は一体何に対して流されているのだろうか。和春の胸はざわつく。何故かは分からないが、とにかく、泣いている姿を見ていられなかった。

 思わず彼女を引き寄せ強く、抱き締めた。

「泣くな。傍にいてやるから」

 驚いて身じろぐ彼女の動きを封じるように、きつく抱き締めた。和春の言葉に驚いているのか、反応が止まる。

「もう少しだけ、このままでいいか」

 その声音はまるで、愛しいものを相手にしているようだった。どこか縋るような雰囲気に彼女もまた、されるまま静かに涙を流す。
 どのくらいの時間だっただろう。二人だけの空間は時が止まっているようだった。お互いのことを知らないはずなのに、ずっと前から知っていたような、懐かしい暖かさに、二人は溺れていた。



「名前を聞いても良いだろうか」

 しばらくして、彼女を床に移し和春は問いかける。
 小さく首を振る彼女に何か訳ありなのかもしれないと考える。

「覚えていることはあるか」

 だが、何を聞いても首を横に振るばかりで肝心の声も聞くことができない。

「そうか……じゃあ落ち着いたらまた話してくれ。俺は和春。気楽に呼んでくれていい。何なら今呼んでくれてもいいぞ」

 声が聞きたいあまりに名前を呼んでほしいなどと言う和春は、紫が見たらきっと呆れられるななどと考えながら目の前の彼女を見る。
 彼女は、ただ静かに笑っていた。寂しそうに。

「何か食べたいものはあるか」

 今度は困ったように笑う。そして、そっと喉に手を当てて首を静かに振った。

「……お前、声が出ないのか」

 ゆっくりと頷く姿に、和春は彼女以上の悲しみを受けた。そして再び彼女を引き寄せ抱き締める。
 さっきよりも優しく、だけど強く。

「何も心配いらない。俺が傍にいてやる」

 きっと余り良い扱いを受けていなかったのかも知れない。そんな境遇を思うと抱き締める手に力が入る。
 彼の思いに応えるように、遠慮がちに伸ばされた手はそっと和春の背中に回る。


「……そうだ」

 何かを思いついたのか、和春は彼女をじっと見つめる。

「これからお前を春、春姫と呼ぼう。あの時は桜の精かと思ったんだ。我ながら良い名付けだと思うんだが、どうだ?」

 びっくりした表情を見せた彼女は、やがて今日一番の笑顔を見せた。本当に嬉しいのか、何度も何度も頷く。

「春姫」

 名前を呼ばれ、また、和春に抱き締められる。

「春姫」

 名前を呼べて堪まらないというように、抱き締められ、彼女は嬉しそうに瞳から雫を零した。




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