熱砂の心
一章
男は立っていた。ジェルでぴったりと整えた髪に左手にはトーションをかけ、椅子に座っている客の後ろに、少し離れた所に控えて申し付けを待っていた。
眼はいつもテーブルの皿やグラスが空いていないかを見渡し、まだこの客はシャンパンを必要としているかを見定めながら、姿勢は正しく、しかし退屈そうに構えている。
『あと10分です。』
そう小声で男に言うと小柄な女は男の隣について、何が可笑しいのか少し笑みを隠している。
男は変わらず退屈そうに前を見据えている。
それが面白くないのか、女はどうでもいい質問を加える。
『しのさん今日はこれで終わりですか?』
男は『いや。』と一言。
『そうですか。』と女の顔からはいよいよ嬉しそうな表情は消える。
『私バッシング行ってきます。』
そう短く言い残すと小柄な女は裏方へきえた。
それを横目で見送り男は腕時計の時間を確認し、自分もまた裏方の作業へ向かわなければいけないのを思いだし3秒ほど机を確認し、左手にトレイを持って空いているグラスをさげ、速やかに賑わっている宴会場を去った。
『それじゃ22:15上がりで、お疲れ様です。』痩せこけた頬が特徴的な男が1日の終わりを皆に告げ、周りからは一声に、仕事ではないプライベートな話が飛び交うようになった。
男も気が抜けたのか、すぐさま調理場の横の流し台に向かい荒い手つきで顔を数回洗い、大きな溜め息をし鏡で自分の顔を確認する。またニキビが出来ているのを見つけ鬱陶しいといった表情で食堂に向かった。ここのホテルは朝昼晩に加え夜食も作ってくれるし、食事中も高自給が発生するなどで、お金がないアルバイトからも人気がある。しかし大抵は1ヶ月もしないうちに辞めていくのが多いが、男はその理由を知らなかった。食堂に着くと先ほどの小柄な女が薄暗い部屋の隅で一人夜食を食べながらスマホを触っていた。
『お疲れ様、隣いいか?』
すると口のなかにまだモノが入っていたらしく、女は少し驚いたあとに必死にどうぞどうぞとジェスチャーで席を勧める。
『あぁごめんタイミング悪かったね、ありがとう。』
女はやっと飲み込めたらしく急いで大丈夫と付け加えた。
男は無言で夜食のコロッケ入りのカレーをスプーンで口に運ぶ。辛いものが苦手な男はホテルのカレーがあまり好きではなかったが贅沢は言えなかった。
『珍しいですね、しのさんからいらっしゃるなんて。』とスマホを制服の内ポケットにしまい女は続ける。
『いつもだいたい無視されるのに。』
『してないよ。仕事中に喋ってるとデコ広いヤツに怒られるだろ?それが面倒なんだよ。』
男は笑った。
『それって高野さんですか?ダメですよそんなこと言っちゃ!』
そういいながら女もつられて笑った。
『え?いや、違うんだけど。あーあ言っちゃおうかなこれは酷い。高野さん悲しむだろうな。』と男はすこし意地悪をしてみたところ、女は焦って言い訳を並べてくる。その案の定すぎる反応が楽しくて男はよくこの女をからかう。
『やめてくださいよ、もう喋ってあげませんよ。』
『何様だよお前。』
『酷い!私の方が先輩なんですよ!?』
そう言うとまたそれが可笑しいのか笑みを隠そうとする女。それからいつもの女からの質問攻めが始まり。適当に答える時間が続くが男は不思議と疲れを感じず、むしろ1日の疲れがすこし和らぐ気がした。
『御馳走様。じゃあ俺は先に帰るから。菊地も気を付けて帰れよ。』
男は力のは入りにくい体を労るようにゆっくり腰をあげる。
『あ!お疲れ様です。私ももう帰りますから。』
女はそう言いながら残りのデザートを勢いよく食べながらトレイをもって立ち上がる。
『べつにゆっくりしたらいいのに。』と男。
『いえ本当に私も帰ろうと思ってたんです。終電逃しちゃうから。』と女。
『そう。まだ22:45だけど。よっぽど遠くから来てるんだね。』男はまたからかう。
『まあいいじゃないですか、それよりしのさんはどちらから帰られるんですか?』
『山手線で池袋まで、そこから東武東上線つかうかな。』
『そうなんですか!じゃ池袋まで一緒ですね。』
女は進行方向を見ながらすこしはや歩きになる。男は無言だった。複雑な造りをしているビルのB4女子更衣室に着くまでも他愛もない話をしていたが、男は何か煮えたぎらない気持ちがあった。それは女に対してはではなく全く別の何かである。いつもいつもアルバイトが終わる頃に必ず訪れるこの気持ちは、寝て起きればあたかも全く知らなかったというように無くなっているのである。男はそれが怖かった。
『じゃ着替え終わるまで待っとくよ。』そう言うと男は女と別れ、廊下に設置している小さなロッカー群の下の段の鍵を空け服を取り出し、着替え始めた。気がつけば長細い廊下の遠く向こうにはまだ、二人ほど同じく廊下で着替えている男達がいた。見たところ中年の中国人で、口をつまらなさそうに閉じ、履きなれた革靴からボロボロなスニーカーに履き替えていた。彼等もこれから人で溢れかえりそうな帰宅ラッシュの電車で帰路につくのだろうと考えながら、使い込んだBrooksのレザージャケットに袖を通したが、男はまるで興味がなかった。そうしている間に女は私服に着替え終わっていて、こちらに向かってユルい足取りで向かってくる。それを見て男は、長い1日の最後に特別大きな溜め息と女と共に、薄暗い地下から地上に向かって階段を昇り始めた。
眼はいつもテーブルの皿やグラスが空いていないかを見渡し、まだこの客はシャンパンを必要としているかを見定めながら、姿勢は正しく、しかし退屈そうに構えている。
『あと10分です。』
そう小声で男に言うと小柄な女は男の隣について、何が可笑しいのか少し笑みを隠している。
男は変わらず退屈そうに前を見据えている。
それが面白くないのか、女はどうでもいい質問を加える。
『しのさん今日はこれで終わりですか?』
男は『いや。』と一言。
『そうですか。』と女の顔からはいよいよ嬉しそうな表情は消える。
『私バッシング行ってきます。』
そう短く言い残すと小柄な女は裏方へきえた。
それを横目で見送り男は腕時計の時間を確認し、自分もまた裏方の作業へ向かわなければいけないのを思いだし3秒ほど机を確認し、左手にトレイを持って空いているグラスをさげ、速やかに賑わっている宴会場を去った。
『それじゃ22:15上がりで、お疲れ様です。』痩せこけた頬が特徴的な男が1日の終わりを皆に告げ、周りからは一声に、仕事ではないプライベートな話が飛び交うようになった。
男も気が抜けたのか、すぐさま調理場の横の流し台に向かい荒い手つきで顔を数回洗い、大きな溜め息をし鏡で自分の顔を確認する。またニキビが出来ているのを見つけ鬱陶しいといった表情で食堂に向かった。ここのホテルは朝昼晩に加え夜食も作ってくれるし、食事中も高自給が発生するなどで、お金がないアルバイトからも人気がある。しかし大抵は1ヶ月もしないうちに辞めていくのが多いが、男はその理由を知らなかった。食堂に着くと先ほどの小柄な女が薄暗い部屋の隅で一人夜食を食べながらスマホを触っていた。
『お疲れ様、隣いいか?』
すると口のなかにまだモノが入っていたらしく、女は少し驚いたあとに必死にどうぞどうぞとジェスチャーで席を勧める。
『あぁごめんタイミング悪かったね、ありがとう。』
女はやっと飲み込めたらしく急いで大丈夫と付け加えた。
男は無言で夜食のコロッケ入りのカレーをスプーンで口に運ぶ。辛いものが苦手な男はホテルのカレーがあまり好きではなかったが贅沢は言えなかった。
『珍しいですね、しのさんからいらっしゃるなんて。』とスマホを制服の内ポケットにしまい女は続ける。
『いつもだいたい無視されるのに。』
『してないよ。仕事中に喋ってるとデコ広いヤツに怒られるだろ?それが面倒なんだよ。』
男は笑った。
『それって高野さんですか?ダメですよそんなこと言っちゃ!』
そういいながら女もつられて笑った。
『え?いや、違うんだけど。あーあ言っちゃおうかなこれは酷い。高野さん悲しむだろうな。』と男はすこし意地悪をしてみたところ、女は焦って言い訳を並べてくる。その案の定すぎる反応が楽しくて男はよくこの女をからかう。
『やめてくださいよ、もう喋ってあげませんよ。』
『何様だよお前。』
『酷い!私の方が先輩なんですよ!?』
そう言うとまたそれが可笑しいのか笑みを隠そうとする女。それからいつもの女からの質問攻めが始まり。適当に答える時間が続くが男は不思議と疲れを感じず、むしろ1日の疲れがすこし和らぐ気がした。
『御馳走様。じゃあ俺は先に帰るから。菊地も気を付けて帰れよ。』
男は力のは入りにくい体を労るようにゆっくり腰をあげる。
『あ!お疲れ様です。私ももう帰りますから。』
女はそう言いながら残りのデザートを勢いよく食べながらトレイをもって立ち上がる。
『べつにゆっくりしたらいいのに。』と男。
『いえ本当に私も帰ろうと思ってたんです。終電逃しちゃうから。』と女。
『そう。まだ22:45だけど。よっぽど遠くから来てるんだね。』男はまたからかう。
『まあいいじゃないですか、それよりしのさんはどちらから帰られるんですか?』
『山手線で池袋まで、そこから東武東上線つかうかな。』
『そうなんですか!じゃ池袋まで一緒ですね。』
女は進行方向を見ながらすこしはや歩きになる。男は無言だった。複雑な造りをしているビルのB4女子更衣室に着くまでも他愛もない話をしていたが、男は何か煮えたぎらない気持ちがあった。それは女に対してはではなく全く別の何かである。いつもいつもアルバイトが終わる頃に必ず訪れるこの気持ちは、寝て起きればあたかも全く知らなかったというように無くなっているのである。男はそれが怖かった。
『じゃ着替え終わるまで待っとくよ。』そう言うと男は女と別れ、廊下に設置している小さなロッカー群の下の段の鍵を空け服を取り出し、着替え始めた。気がつけば長細い廊下の遠く向こうにはまだ、二人ほど同じく廊下で着替えている男達がいた。見たところ中年の中国人で、口をつまらなさそうに閉じ、履きなれた革靴からボロボロなスニーカーに履き替えていた。彼等もこれから人で溢れかえりそうな帰宅ラッシュの電車で帰路につくのだろうと考えながら、使い込んだBrooksのレザージャケットに袖を通したが、男はまるで興味がなかった。そうしている間に女は私服に着替え終わっていて、こちらに向かってユルい足取りで向かってくる。それを見て男は、長い1日の最後に特別大きな溜め息と女と共に、薄暗い地下から地上に向かって階段を昇り始めた。