黒猫とさよならの旅
キキ、と小さなブレーキ音が響いて彼の背中がピタリと止まる。
ぶつかりそうになって慌てて私もブレーキをかけると、前かごの黒猫が勢いで少し身体を浮かせてしまった。
スマホを片手に、隣にある建物を見上げる壱くん。それを見て、彼の目指していた場所がここなんだと気づいた。
私も彼と同じ方向に視線を移すと、細長い、きれいだけれどそんなに大きくはないマンションだった。五階までくらいしかない。なんとなくだけれど、ワンルームマンション何じゃないかと思う。
そっと、自転車から降りる壱くんの真似をして私も降りてふたりで道の端に止めると、彼と視線がぶつかった。
微かに、迷いのある、瞳。
彼が、こんな表情になるなにかが、ここにある。
私、ここまでついてきてしまってよかったんだろうかという不安が私を襲った。
着いてくるな、とは言われなかったし、なにも考えずにただ、追いかけていたけれど……彼にとって私は、今ここに不要な存在だったんじゃないだろうか。
「あ、の」
「……俺の用事ここ」
私の言葉を遮るように、彼が緊張のこもった声で言った。そして、小さく、呼吸を整える。
「ここで待ってて、って言いたいところなんだけど」
「……うん」
「逃げ出すかもしんねーから、ついてきてくれねえ?」
思いがけない言葉だった。
彼が、逃げ出す、なんて言葉を口にするなんて思わなかった。だからこそ、彼にとってこの場所が、それほどまでに大事なところなんだとわかる。
うまく声が出なくて、代わりにこくりと頷くと、彼は力ない微笑みを向けてからマンションのエントランスに向かっていった。
黒猫を見ると、また私を見ていて、思わず手を伸ばして抱き締める。一緒にいたいかな、と思ったけれど、黒猫の体温で少しホッとした自分に、ただ、私が猫といたいだけだったんだと思った。
部屋番号を押して、チャイムを鳴らす。
彼の表情は、少し後ろにいる私には見えない。
『はい』
「……俺」
低い彼の声に、チャイムを取った先にいるだろう女性の息が止まるような空気を感じた。
『……待ってて。すぐ、降りるわ』
若い女の人、ではなかった。もう少し、年を取ったような、そんな女の人の声。私の、お母さんくらいの声だったように思う。
もしかして。
もしかしてこの家は。
ぎゅっと強く黒猫を抱きしめてしまったけれど、猫は何も言わずにただ大きく目を見開いて壱くんを見つめていた。