黒猫とさよならの旅


 女の人がやってきたのはその数分後。一言も言葉をかわさないままエントランスを出たすぐそばで立っていると、慌てた様子で私たちの前にやってきた。

 ショートボブの髪の毛に、少し、やつれているような顔の女性。

 四〇代か、五〇代か、私にはわからない。ただ、目元が壱くんに、よく似ている。私を見て軽く頭をさげてから、俯いたままの壱くんを、少しだけ離れた位置から見つめた。

 どこか、他人のような距離に、胸が落ち着かない。


「……壱」


 震えるその声に、彼がやっと顔を上げた。


「母さん」


 やっぱり、そうだったんだ。


「……どう、したの? 久しぶりね。元気にしてるの?」


 戸惑いを隠すように、明るい声で話しかけるおばさんに、壱くんは答えなかった。唇を結んでいて、何かをこらえているようなそんな顔。何度か唇が開くけれど、何度もまた閉じてしまう。


 声が、出ないんだ、きっと。


 言いたいことがあるのに、うまくいえないんだ。——私の、ように。

 暫く沈黙が降り注ぎ、それに比例するように空が暗くなっていくのを感じた。


「戻って、こないの?」


 絞りだすような彼の声が、胸に突き刺さって。私は関係ない人間なのに、涙が出そうになってしまった。

 頑張れ、頑張れ。

 頑張ってる彼に、心のなかで叫ぶしか出来ない。


「……それは、できないわ」
「な、んで! 誰とも結婚してないんだろ? じゃあ、もういいじゃないか。親父は俺が説得するから!」
「壱、無理なの……ご、ごめんね」


 おばさんの声はとてもつらそうだった。でも、揺るがない強さがあった。言い換えれば拒絶みたいな、強さ。


「覚(さとる)が、クラブに入りたがってる。俺が……入ってたようなやつ。でも今の状態じゃ、無理なんだ、だから」
「壱……」
「わかるだろ? 覚のためにも……母さんがいないと、俺みたいに我慢させなきゃいけねえんだ」


 壱くんの声は、大きなものじゃなかった。
 だけど、どれだけ必死に言葉を紡いでいるか、状況もわからないままそばにいる私にだってわかる。感情を抑えこんで、一生懸命思いを伝えているのがわかる。

 おばさんにだってわかっているはずだ。おばさんの瞳は涙で潤んでいて、それを一生懸命こらえている。

 それでも。


「ごめんね」


 返ってくる言葉はなにも変わらない。

 おばさんは、ただ、首を左右に振って手で口元を押さえて、その言葉だけを繰り返し繰り返し、壱くんに伝え続けた。


「……な、んで」
「ごめんね、ごめんね壱。なにもできないけど……頑張って、としか言えないけど……」


 私はその会話を、じっと、目をつむって涙を堪えながら俯いて聞いていた。 
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