黒猫とさよならの旅
話をしたのは、たった数分。
壱くんがなにも言えないでいると、おばさんは「元気でね」と他人行儀な挨拶をして、逃げるようにマンションに戻ってしまった。
取り残された私たちは暫くその場で立ちすくむようにつったっていたけれど、壱くんがなにも言わずに自転車にまたがり、私はなにも言わずに彼の背中を追いかけた。
ただただまっすぐに走る。どこかにたどり着くのを待っているのか、取り敢えず遠くまで行こうとしているだけなのか。
いつの間にかすっかり日が沈んでしまい、多くない街灯が出来る範囲で私たちの進む道を照らしてくれていた。
たどり着いたのは川だった。
自転車を川辺に放り投げるように止めて、川に向かって歩いて行く。そのまま川に飛び込んでしまうんじゃないかと思えるほどの勢いで脚を進め、水辺の直前でピタリと止まった。
ただ、立っているだけの、背中。誰も、触れることの出来ないような緊張感を纏っていて、私は近づくこともできなかった。
だけど、彼を放っていくなんて出来るはずもなく、見えるギリギリの距離でそっと自転車を止めて、猫のように小さく丸まるように腰を下ろして彼を見つめた。
今、彼は何を考えているのだろう。
「……行かないのか?」
黒猫の声は、こんなときでもいつもと変わらない。
まるで自分がここにいるのが飽きたから言っているだけみたいに、そっけない。
視線を向ければ、地面にでろりと横になって、首を大きく傾けた横着な体勢で私を見ている。
「壱くんに、なんて声をかければいい?」
「そんなのぼくが知るわけないじゃないか。知りたいなら聞きに行けばいい」
それが出来ないから聞いてるんだよ。
壱くんの背中に視線を戻すと、彼はさっきと同じ体勢で川を眺めていた。
一生懸命、耐えているのがわかる。それは、頑張っているってことだ。ひとりで、必死に。
まるで、いつかの自分を見ているみたいな苦しさと、いつかの自分の背中を押してくれるような力強い意志を感じる。
……私は、いつもなにも出来ない。
大丈夫?なんて言葉は聞きたくないだろう。かといって頑張ろう、とはいえない。事情をよく知らない私が、大丈夫だよ、なんて無責任なことは言いたくない。
彼は、なにを望んでいるんだろう。
「きみは、どうしたい?」
どう、したいんだろう。
出来ない理由はたくさんある。数えきれないほどあって、それらを考える度に私は体中がカチコチに固まって、声すら発せられなくなるんだ。
本当はただ、笑って欲しかっただけ。私を、見て欲しかっただけ。
「……頑張りたい」
そう言うと、虹はなにも言わずに、好きにすれば、と言いたげな欠伸をした。