余韻
始まり
 夕飯時、味噌汁の椀を片手に持ったままで、ふと思った。

――男はどうしたって身勝手な生き物だ。

 テレビの情報番組で仕入れた知識だろうか、わかめの味噌汁の効能をとく妻の姿は見慣れた光景だ。もっとも、30年近くもこうして夕飯のたびにテーブルのあちらとこちらに座って顔を合わせていれば、嫌でも見慣れる。
 誤解のないように言っておくが、『嫌でも』というのはただの慣用句に過ぎない。私は妻を愛しているし、染め忘れた白髪が少し目立つ容姿も、それはそれで共に時間を重ねてきた愛着を感じるほどに美しいものだ。
 それでも私は、このとき、妻ではない女のことを心に思い浮かべていた。
 別にきっかけがあったわけではなく、味噌汁の中でゆらゆらと泳ぐわかめを見ているうちになんとなく……それは具体的な想いではなく、きゅうと胸を締め付ける甘い感覚のみを私にもたらす夢想のようなものだ。相手は遠い故郷にいる幼馴染なのだから、恋というよりは郷愁に似ているかも知れない。
 美しい妻を前にして他の女のことを考えている自分の身勝手さに私は戸惑い、無心を装って味噌汁をすすりこんだ。
 妻は静かに笑っている。
「とくに、お酒を飲んだ後はお味噌汁がいいらしいわよ」
「ああ」
 うわのそらな返事を反せば、妻がほうっとため息をつく。
「またそうやって生返事……」
「生返事じゃないさ。きいてるよ」
 じっさい、妻の言葉を『聞いて』はいる。言葉として、音として、耳に入っていないわけではないのだ。
 だがそれは慣れきった当たり前すぎる会話で、私は妻が弾丸のように話す様々な情報の全てに気の聞いた返事を返せるほど語彙力があるわけではない。
 娘が二人とも嫁に行って二人暮らしになった頃からは特に、私は妻との会話をもてあますようになっていた。
 だから最近は、妻がくだらない話を始めるとぼんやりした霞のようなものが意識の片隅に現れ、その中にぼんやりと幻の女が立っているような白昼夢を見る。
 最後に彼女を見たのは駅のホームで、まだ20代のころだった。だから白昼夢の中にいる彼女はあの頃のまま、若々しくて淡いピンク色のセーターを着ている。
 慌てて引いた紅がすこし歪んでいるのを指先でぬぐってやれるんじゃないかというほど近くに、微笑みながら立っている彼女に、私は決して触れようとはしない。
 そう、別れの言葉をかわしたあの時、彼女はすでに人妻だったのだし、いまの私には妻が居る。だから絶対に触れない……それが私の都合のいい『思いで』という白昼夢のなかであったとしても。
 そんな私の心などつゆほども知らぬのだろう、妻はすこし間が抜けた声で「あ」と言った。
「なんだい?」
「そういえば、同窓会のお返事、どうするの?」
「あ~、あれか……」
 それはポストに入っていた一枚の往復はがきで、出席か欠席いずれかに丸をつけて返送することになっている。締め切りは近い。
「どうしようか……有給はまだ残っているし……」
「あら、だったら行ってきなさいよ。たまには故郷でのんびりするのもいいと思うわよ」
 親父が死に、母親が他県に嫁いだ姉のところに引き取られてからこっち、墓参り以外の用向きで故郷を訪ねたことがない。
「だけど、家も残ってないし、泊まるところがないよ」
「だったらホテルをとればいいじゃない。たまには旅行気分で、行ってらっしゃいよ」
「お前はどうする?」
「美恵子が初のお産でいろいろと不安らしいから、すこし泊まりで面倒を見に行こうと思っていたところなの。だから、ちょうどいいんじゃない?」
 美恵子というのは上の娘で、今はちょうど妊娠中期に入ったところ、つまり男親は邪魔だということなのだろう。
「そうだな、たまには……」
「ええ、思いっきり羽を伸ばしていらっしゃい」
 こうして私は故郷へと帰る新幹線の切符を予約することになった。窓口で支払いをしながら思ったことはやはり身勝手にも、あの思い出の中で見る女のことで――もしかして、彼女も同窓会に現れるのではないかという淡い期待だった。
 別に特別なことを望んでいるわけではない。ただ、忘れられなかった初恋の残滓が、水に濡れた手で海苔をつかんでしまったときのようにまとわりついて離れない、ただそれだけの話だ。
 それでも、妻に申し訳ないことをしているような気分になるのはなぜだろう。

――男はどうしたって身勝手な生き物だ。

 だからこそ私は触れないだろう、あの女に。
 たとえ同窓会で顔を合わせ、懐かしげに愛称で呼ばれたとしても、絶対に心動かされたりすることなどあってはいけない。
 そう、自分を戒めて、私は窓口の者からチケットを受け取った。 
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