余韻
……あの同窓会から数ヶ月たって、俺のところに届いた便りは黒い枠で縁取られた縁起の悪いものだった。
 本来ならこうした手紙の返答ははがき一枚ですむのだが、私は失礼を承知で喪主となっている彼女の夫に電話をかけた。電話口に出たその声は年老いていて、私は彼女が結婚するときに人づてで「年上の男らしい」と聞いたことを思い出した。
 電話の向こうで彼が言う。
『あなたは、ええと……』
「はじめまして、奥様の中学時代の同級で、西田といいます」
 しばらく間があった。それは不快な間ではなく、記憶をたどろうとしている老人に特有の、至極自然な空白の言葉であった。
『……ああ、キミがあの西田君か!』
 何の疑いもない、なぞなぞの答えを見つけた子供のように無邪気な声。これだけでも私は負けている。
妻には一度として陽子の話を聞かせたことなどない。誰にも触れさせたくはない大事な思い出だからというのも理由のひとつではあるが、もしも嫉妬から様々を問い詰められたときに言い訳の言葉を並べなくてはならないのが嫌だったからだ。
そんな私の苦悩をひょいと飛び越えて、電話の向こうで男は明るい声を出した。
『同窓会のときにもいろいろとお世話になったそうで、その節はありがとうございました』
「あ、いえいえ、このたびは大変残念なことで……」
『いえね、あえては書きませんでしたけれどガンだったんです、末期の。一度は回復もしたようにみえたんですが、転移しているのが見つかりましてね、家族はちゃんと覚悟ができていましたから、そういう意味では幸せな死に方だったんですよ』
 陰湿なところのひとつもない落ち着き払った口調から感じたのは、彼女の闘病中に一番近くにいたがゆえの慈悲だった。
 苦しみながら、もがきながらも生きようとするみっともない姿まで、この夫君は見守っていたのだろう。そして今は、彼女がその苦しみを超えたところに行ってしまったことを心底から喜んでいる、これこそが妻に対する無償かつ至高の愛だ。
 このときに私の胸にあったのは汚らしい嫉妬や欲情ではなく、最期のときまで彼女は見守られて、幸せな気持ちで逝ったのだろうという安堵であった。
電話の向こうから、声が私を呼ぶ。
『たとえ葬儀には参列しなくても、なにかの折に寄ってください。あなたが線香をあげてくれれば、妻もきっと喜びますから』
「あの、奥さんは私のことをなんと……」
『とても大事な思い出をくれた人だといっていました。初恋という思い出をくれた人だと。だから無理をして同窓会に行ったのも、あなたに会えるかもしれないという一心だったのかもしれませんね』
 もしここで、坂の上公園でキスを誘われた一件を話したらどうなるだろうかという意地悪な気持ちがわいた。電話の向こうの柔和な声を嫉妬でわななかせてみたいと思うのは、亡くなった彼女に対する唯一の愛情表現だ。
 私は、私の気持ちが決して生半可なものではな意ことをこの男に知らしめてやりたいのだ。道を分かち、形は変わってしまったが、過去の中にある思い出の日々も確かな愛の形だったのだと、この男に。
 しかし私の負けなどはじめっから決まったことなのだ。たぶんあの日、私と陽子の間に艶夜があったとしても、この男は動じずに受け入れるのだろうと思われた。
 だから私はたった一言、涙を含んだかすれ声で言うのが精一杯だった。
「陽子は……私にとっても『大事な女』でした」
『知っています。だから、線香を上げにきてください。それが陽子にとって何よりの供養ですから』
 電話はそれで切れた。私はただ、泣き崩れるしかなかった。

――男は身勝手だ

 私には美しい妻がいる。可愛い娘二人は嫁いで、もうすぐ初孫も生まれる。
 それでも今、この瞬間だけは……私の心をふさいでいるのは過去の恋だ。体さえも交わさず、大事な思い出となってしまった、遠い過去の女のことで私は泣いている。

――でも、男よりも身勝手なのは……

 初恋の余韻だけを残してこの世から消えた女を身勝手にも呪いながら、私はただ、静かに両頬を伝う涙をぬぐって鼻をすすり上げるのだった。
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