余韻
その眼の端に薄っすらと水の玉が膨らむ。
「まさか西田君と会えるなんて……同窓会に出席してよかったわ」
膨れ上がった水玉は地面にひかれる力に耐え切れなくなったか、彼女の頬を伝ってぽたりと落ちた。
これに私は狼狽する。
「泣くほどのことはないだろう」
「ごめんなさい、なんだか何もかもが懐かしくって……」
「とりあえず涙を拭きなさい、せっかくの化粧がはげるぞ」
「デリカシーのない言い方ねえ、もう少し気の利いた言い方があるでしょうに」
「口下手ですまんな」
「ううん、そんなところも昔のまんま、本当に西田君なのねえ」
彼女はふっと、しもた屋の軒先に視線を移した。
「まるだ屋、なつかしいわね」
「ああ」
「おぼえてる? このへんにテーブル型のテレビゲームが置いてあって、あなたは学校帰りにいつも寄り道してそのゲームをしていたの」
「子供だったからな、あのゲームの得点を友達と競い合うのが楽しかったんだ」
「ゲームをするための小銭がいつもポケットの中でチャラチャラいってて……わたしね、あなたのこと不良の親玉だと思っていたの」
「なんだそりゃ」
「でも違ったわね、あなたは優しくて、とても紳士的だった」
「子供だっただけだよ」
「ねえ、集合まではまだ余裕があるし、すこし遠回りしていかない?」
私の答えを聞くよりも早く、彼女はまるだ屋の隣の路地へ向かって歩き出す。
すこし小走りの歩調が楽しげで、まるで中学生だった――あの頃の彼女の背中を見ているような甘酸っぱい感傷が押し寄せてくる。
「ほら、はやく!」
すうっと振り向いた彼女の顔はやっぱり老いていて、それでも笑顔の明るさがあの頃のままなのが哀しい気がした。
「30年か……」
「え? なあに?」
「いや、あまりはしゃがないほうがいいぞ、お互い、もう若くないんだからな」
「また、そういうデリカシーのないことを言う!」
歩調を速めて彼女に追いつく。並んで歩くこの道は、学校指定の通学路を一本外れた二人だけの『通学路』だった。
角にある家は昔のまま、古い木造の平屋で懐かしい風情を晒している。昔はもっと薄暗いお化け屋敷のような家だと思っていたのに、塗りなおしでもしたのだろうかと庭先をのぞく。
「ああ、わかった、木だ。ここに大きな椿の木があったんだ」
「残念、伐っちゃったのね。あれは私の思い出の椿だったのに」
「あれが?」
「付き合い始めるすこし前だったかしら、友達とここを通ったときに、わたしが何気なく『この椿きれい、一輪ほしいな』って言ったのよ」
「ああ、覚えてる。そのとき私はぐうぜん君の後ろを歩いていて、その言葉が耳に入ったんだ」
「そうしたら翌日、あなたはこの椿を一枝とってきてくれたのよね、内緒で」
「そんなことはない。ちゃんと家の人にお願いして切ってもらったんだ」
「うそおっしゃい、まるで逃げ出した悪者みたいにあたりを気にして、体を震わせていたじゃないの、おまけに、枝の切り口は折ってむしったみたいにぎざぎざだったわよ」
「それが大事な思い出?」
「そうよ、男の人から初めて花をもらった思い出。思えばあの時、わたしはあなたのことが好きだと自覚したのかも」
不意に私の胸を打つものは恋情か。遠い過去の中から波のように一気に押し寄せて私の足元を濡らす。それは甘い疼きの感覚で……いま振り向いた彼女の頬に指先を伸ばしてしまいたいと、触れる権利があるはずだと、潮騒のように私の中で鳴る。
しかし、触れてはならない。
30年という年月の中で私たちは変わってしまった。肉体は老いて見た目も変わり、何よりお互いに『家庭』という別々の人生を歩いている途中なのだから、感傷に流されてはいけない。
若かったあの頃、確かにふたりで並んで歩いていた道は目の前にあるホコリっぽいアスファルトの小路ではなく、長い人生を老いに向かって歩く道程のほんの一部分だったのだ。帰り道を途中まで一緒に並んで歩いて、先のまるだ屋の角で手を振って別れるような、そんな短い夢心地を一緒に過ごしただけ。
いまの私たちはそれがわからぬほどに子供ではないのだから、これは長い間閉まっておいた宝物に傷がないか、壊れていないか、そして幻ではなかったのかを指先でなぞって確かめているような儚い時間なのだ。
うっかり彼女に触れてしまわぬように、私は握りこんだ両のこぶしをポケットに突っ込んだ。
「まさか西田君と会えるなんて……同窓会に出席してよかったわ」
膨れ上がった水玉は地面にひかれる力に耐え切れなくなったか、彼女の頬を伝ってぽたりと落ちた。
これに私は狼狽する。
「泣くほどのことはないだろう」
「ごめんなさい、なんだか何もかもが懐かしくって……」
「とりあえず涙を拭きなさい、せっかくの化粧がはげるぞ」
「デリカシーのない言い方ねえ、もう少し気の利いた言い方があるでしょうに」
「口下手ですまんな」
「ううん、そんなところも昔のまんま、本当に西田君なのねえ」
彼女はふっと、しもた屋の軒先に視線を移した。
「まるだ屋、なつかしいわね」
「ああ」
「おぼえてる? このへんにテーブル型のテレビゲームが置いてあって、あなたは学校帰りにいつも寄り道してそのゲームをしていたの」
「子供だったからな、あのゲームの得点を友達と競い合うのが楽しかったんだ」
「ゲームをするための小銭がいつもポケットの中でチャラチャラいってて……わたしね、あなたのこと不良の親玉だと思っていたの」
「なんだそりゃ」
「でも違ったわね、あなたは優しくて、とても紳士的だった」
「子供だっただけだよ」
「ねえ、集合まではまだ余裕があるし、すこし遠回りしていかない?」
私の答えを聞くよりも早く、彼女はまるだ屋の隣の路地へ向かって歩き出す。
すこし小走りの歩調が楽しげで、まるで中学生だった――あの頃の彼女の背中を見ているような甘酸っぱい感傷が押し寄せてくる。
「ほら、はやく!」
すうっと振り向いた彼女の顔はやっぱり老いていて、それでも笑顔の明るさがあの頃のままなのが哀しい気がした。
「30年か……」
「え? なあに?」
「いや、あまりはしゃがないほうがいいぞ、お互い、もう若くないんだからな」
「また、そういうデリカシーのないことを言う!」
歩調を速めて彼女に追いつく。並んで歩くこの道は、学校指定の通学路を一本外れた二人だけの『通学路』だった。
角にある家は昔のまま、古い木造の平屋で懐かしい風情を晒している。昔はもっと薄暗いお化け屋敷のような家だと思っていたのに、塗りなおしでもしたのだろうかと庭先をのぞく。
「ああ、わかった、木だ。ここに大きな椿の木があったんだ」
「残念、伐っちゃったのね。あれは私の思い出の椿だったのに」
「あれが?」
「付き合い始めるすこし前だったかしら、友達とここを通ったときに、わたしが何気なく『この椿きれい、一輪ほしいな』って言ったのよ」
「ああ、覚えてる。そのとき私はぐうぜん君の後ろを歩いていて、その言葉が耳に入ったんだ」
「そうしたら翌日、あなたはこの椿を一枝とってきてくれたのよね、内緒で」
「そんなことはない。ちゃんと家の人にお願いして切ってもらったんだ」
「うそおっしゃい、まるで逃げ出した悪者みたいにあたりを気にして、体を震わせていたじゃないの、おまけに、枝の切り口は折ってむしったみたいにぎざぎざだったわよ」
「それが大事な思い出?」
「そうよ、男の人から初めて花をもらった思い出。思えばあの時、わたしはあなたのことが好きだと自覚したのかも」
不意に私の胸を打つものは恋情か。遠い過去の中から波のように一気に押し寄せて私の足元を濡らす。それは甘い疼きの感覚で……いま振り向いた彼女の頬に指先を伸ばしてしまいたいと、触れる権利があるはずだと、潮騒のように私の中で鳴る。
しかし、触れてはならない。
30年という年月の中で私たちは変わってしまった。肉体は老いて見た目も変わり、何よりお互いに『家庭』という別々の人生を歩いている途中なのだから、感傷に流されてはいけない。
若かったあの頃、確かにふたりで並んで歩いていた道は目の前にあるホコリっぽいアスファルトの小路ではなく、長い人生を老いに向かって歩く道程のほんの一部分だったのだ。帰り道を途中まで一緒に並んで歩いて、先のまるだ屋の角で手を振って別れるような、そんな短い夢心地を一緒に過ごしただけ。
いまの私たちはそれがわからぬほどに子供ではないのだから、これは長い間閉まっておいた宝物に傷がないか、壊れていないか、そして幻ではなかったのかを指先でなぞって確かめているような儚い時間なのだ。
うっかり彼女に触れてしまわぬように、私は握りこんだ両のこぶしをポケットに突っ込んだ。