余韻
「ねえ、西田君、私たちはずいぶんと変わってしまったわね、昔はこのくらいの坂、走ってでも上れたのに」
「すこしだまって歩け。息があがってるぞ」
「私はこんなおばあちゃんになってしまったのに、ひとつだけ昔と変わらないものがあってね今日までそれを大事にしてきたの」
 彼女の声はすこしかすれ気味で、それは終焉を思わせる悲哀にみちていた。だから私は、彼女の口をふさいでしまいたいと思ったのだ。

――決して許されぬ、不埒なやり方で、唇で唇をふさいで声を奪ってしまいたい。

そんな思いを飲み込もうとして、うかつにもそれは、独り言となって唇の外へとこぼれた。
「妻を悲しませたくないんだ」
 それをどうとらえたか、彼女から返されたのはクスクスと呼吸を潜めるような笑いだった。
「やあねえ、別にあなたを口説こうとか、そんなんじゃないのよ」
「ああ、いや……」
 曖昧な返事に重ねるように、彼女は言葉を続ける。
「私だって夫を悲しませたくないし、今は今で幸せだもの、大事だっていうだけ。ただね、あまりに大事な思い出だから、ずっと人生の忘れ物みたいに、もう一度だけあなたに会いたいという想いが消せなかったの」
「わざわざ帰郷してまで同窓会に出席する余裕がなくってな」
「それは私も一緒。子供のこととか、日々のことにおわれて、同窓会なんて長いこと参加してなかったもの」
「そういうヤツはけっこう多いだろうよ」
「だからね、これは最後のチャンスだったの」
「……そうか」
 『最後』という言葉にいくぶんの引っ掛かりを感じたが、それには触れないように陽気な声を出す。
「おお、坂の上公園だ! 懐かしい、まだあったんだな」
 すでに坂を上りきったここにある公園は、本当の名前は別にあるのだろうが『坂の上公園』などという子供らしく安易な呼び方で親しんだ場所だ。小学校のころは友人と三角ベースに興じ、中学生になってからは彼女と……つないだ手を解きがたい日に寄り道した、思い出の場所。
「ちょうどいい、少しだけ休んで行こう」
 彼女のために座る場所を探せば、昔は木でできたぼろいベンチがあった場所には、プラスチック製のこじゃれたベンチが置かれている。
 そこに彼女を座らせたがつないだ手は解きがたく、私はしばらくそのまま突っ立っていた。
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