余韻
所在無くあたりを見渡せば、ここもすっかり変わってしまっている。
回転式ジャングルジムは撤去されたのだろう、そこはきれいに貼られた芝で青々としたじゅうたんが敷かれている。水のみ場も挿げ替えたのか、妙に人工的な緑色の石造りのそれではなくて、コンクリ細工で作られた可愛らしいパンダ型のものが据えられている。
「30年は……長いよなあ」
この公園が残っていること、そしてここで彼女の手をあの日のように握り締めていることまで、全てが軌跡のように感じる。
ただ、この公園のメインであるコンクリート製の滑り台だけが昔のまま、ペンキこそ塗りなおされてはいるが、それがまったく当時のままのように思われて、私は彼女を見下ろした。
ベンチに座っているのはセーラー服にお下げをたらした少女ではない。人生の悲喜こもごもを皺という形で表情の上に刻んできた老女である。
だが、それでも『陽子』なのだと思えば、甘い潮騒がふた度心の砂浜に打ち寄せるような感覚を覚える。
「……君だからいうよ。私は人生の中で何度も、あのままキミと付き合っていたらどうなっていたかを夢想したことがある」
「あら、それは私もよ」
「仕事から疲れて帰ってきたときに、キミが玄関で笑顔で出迎えてくれる、リビングのソファに身を投げ出せば、暖かい食事が目の前に運ばれてくる……でも、想像の中だというのに、私が思い浮かべる玄関といえば現実の中にある我が家の玄関だし、ソファといえば実際にリビングにあるすこし汚れた布張りのソファなんだ」
「そう気づいたとたんに、奥さんのことを思い出してしまうのね?」
「ああ、申し訳ないが」
「気にしないで、それも一緒、私だって、夢想の途中で夫のいる現実に引き戻されちゃうもの」
彼女は小さく笑って、つないだ手を静かに解いた。
「でもね、その現実が今の私には一番大事なの。だから、あなたとの思い出はとても大事だけれど、しょせんは思い出でしかないのよ」
「ああ、それは私も一緒だ」
何気なく滑り台を見上げながら、ほんの少しだけ後悔する。
もしも彼女が少しでも自分の身の上の不幸を語ったならば、私はなににかえても彼女を自分のものにしようとするだろう。過去の中にある幼い恋がそうであったように、純真と愛情のみをささげて彼女に触れようとあがいたかもしれない。
しかし私たちは、お互いに幸せな人生を歩んでしまった。
帰り道、まるだ屋の角、「じゃあまたね」と手を振るように気楽に、お互いの人生に沿っているうちに道は大きく分かれてしまった。いまさらここで再会を果たしたとしても何の意味もない。
それでも私は、彼女がまっすぐに目を上げて滑り台を眺めていることに気づいてしまった。
「ねえ、キスだけでも……しない?」
あの滑り台は、彼女と初めて唇を交わした思い出の滑り台だ。あの時、これから別々の高校に進学する二人は、約束のキスをあのコンクリートの塊の陰に隠れて交わした。
約束だなどと思っているのは当人たちばかりで、本当は会う時間も少なくなって自然消滅する恋への弔いのキスだったのに、私はファーストキスというものにうかれてそんなことには気づかずにいた。ただ唇の柔らかい部分でそっと触れ合うような、吐息さえ感じぬ軽いキスだったことだけは今でも覚えている。
だから私は、あのころのようなキスを交わす自信がなかった。
「無理だよ、キスだけじゃすまなくなる」
指先を再び絡めて、私は囁く。
「わかってほしい、あれは私にとっても大事な思い出で、だから今日まで……絶対に触れようとはしなかった、それほどに30年という時間は……」
私の頬を伝うものは決して涙などではなかったのだと思いたい、墓穴の中まで持ってゆくセンチメンタルを探すにはまだ早いのだから。
回転式ジャングルジムは撤去されたのだろう、そこはきれいに貼られた芝で青々としたじゅうたんが敷かれている。水のみ場も挿げ替えたのか、妙に人工的な緑色の石造りのそれではなくて、コンクリ細工で作られた可愛らしいパンダ型のものが据えられている。
「30年は……長いよなあ」
この公園が残っていること、そしてここで彼女の手をあの日のように握り締めていることまで、全てが軌跡のように感じる。
ただ、この公園のメインであるコンクリート製の滑り台だけが昔のまま、ペンキこそ塗りなおされてはいるが、それがまったく当時のままのように思われて、私は彼女を見下ろした。
ベンチに座っているのはセーラー服にお下げをたらした少女ではない。人生の悲喜こもごもを皺という形で表情の上に刻んできた老女である。
だが、それでも『陽子』なのだと思えば、甘い潮騒がふた度心の砂浜に打ち寄せるような感覚を覚える。
「……君だからいうよ。私は人生の中で何度も、あのままキミと付き合っていたらどうなっていたかを夢想したことがある」
「あら、それは私もよ」
「仕事から疲れて帰ってきたときに、キミが玄関で笑顔で出迎えてくれる、リビングのソファに身を投げ出せば、暖かい食事が目の前に運ばれてくる……でも、想像の中だというのに、私が思い浮かべる玄関といえば現実の中にある我が家の玄関だし、ソファといえば実際にリビングにあるすこし汚れた布張りのソファなんだ」
「そう気づいたとたんに、奥さんのことを思い出してしまうのね?」
「ああ、申し訳ないが」
「気にしないで、それも一緒、私だって、夢想の途中で夫のいる現実に引き戻されちゃうもの」
彼女は小さく笑って、つないだ手を静かに解いた。
「でもね、その現実が今の私には一番大事なの。だから、あなたとの思い出はとても大事だけれど、しょせんは思い出でしかないのよ」
「ああ、それは私も一緒だ」
何気なく滑り台を見上げながら、ほんの少しだけ後悔する。
もしも彼女が少しでも自分の身の上の不幸を語ったならば、私はなににかえても彼女を自分のものにしようとするだろう。過去の中にある幼い恋がそうであったように、純真と愛情のみをささげて彼女に触れようとあがいたかもしれない。
しかし私たちは、お互いに幸せな人生を歩んでしまった。
帰り道、まるだ屋の角、「じゃあまたね」と手を振るように気楽に、お互いの人生に沿っているうちに道は大きく分かれてしまった。いまさらここで再会を果たしたとしても何の意味もない。
それでも私は、彼女がまっすぐに目を上げて滑り台を眺めていることに気づいてしまった。
「ねえ、キスだけでも……しない?」
あの滑り台は、彼女と初めて唇を交わした思い出の滑り台だ。あの時、これから別々の高校に進学する二人は、約束のキスをあのコンクリートの塊の陰に隠れて交わした。
約束だなどと思っているのは当人たちばかりで、本当は会う時間も少なくなって自然消滅する恋への弔いのキスだったのに、私はファーストキスというものにうかれてそんなことには気づかずにいた。ただ唇の柔らかい部分でそっと触れ合うような、吐息さえ感じぬ軽いキスだったことだけは今でも覚えている。
だから私は、あのころのようなキスを交わす自信がなかった。
「無理だよ、キスだけじゃすまなくなる」
指先を再び絡めて、私は囁く。
「わかってほしい、あれは私にとっても大事な思い出で、だから今日まで……絶対に触れようとはしなかった、それほどに30年という時間は……」
私の頬を伝うものは決して涙などではなかったのだと思いたい、墓穴の中まで持ってゆくセンチメンタルを探すにはまだ早いのだから。