余韻
「だけど、信じてほしい、あの日の気持ちだけはウソじゃない。遊びで交わしたキスじゃない。だから……」
 私の手をそっと押し返す彼女の頬は、確かに濡れていた。
「やあねえ、冗談よ」
「そうか」
「私だってオトナなんだから、キスだけじゃすまなくなる。夫を悲しませたくないって言ったでしょ?」
「……そうか」
「もう行きましょう、集合時間に間に合わなくなるわよ」
 立ち上がった彼女の背中を抱きしめて、引き寄せてしまいたい、そんな気持ちを押し隠して……俺は笑っていたはずだ、そういう風に表情を作っていたのだから。
「なんだよ、欲求不満か?」
「おあいにくさま、ウチは円満なほうだと思うわよ」
 そんな冗談の報酬さえ哀しいが、私はすでに人生の終焉に向かうこの道から引き返すつもりなどない。
 妻は美しく、可愛い娘たちも嫁いで初孫ももうすぐ生まれる。
 私の人生は順風満帆で幸せに満ちている。

――それでも、男なんていうのは身勝手な生き物だ

 そう思いながらわたしは、彼女とつながっていた指先をそっと離すのだった。
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