Engage Blues
実は、職人としての腕を見込まれ、スイーツの有名店から引き抜きもあった。
それなのに『私を雇ってくれた店長やお客様への恩義があります』と言って、破格の待遇を断ってしまったらしい。
オーナーも店長も「もったいない」とぼやくほどの潔さ。
彼の人柄もあるけれど、きっと職場に自分の居場所を見つけたんだろう。
どんなに高額なお金を積まれても、手放せないほどの。
だから、言えない。
駆け落ちを提案して拒絶される恐れもある。
その手段自体、慶さんが大事にしているものを奪うことになる。
努力してようやく得られた場所を、わたしの事情や我が儘で失わせていいわけがない。
「……もう、どうしていいやら」
ぼそっとこぼれた呟き。誰に返事を期待したわけじゃないのに、
「だったら、さっさと諦めておしまいなさいッ!!」
ノリノリの大声が背後からやって来た。
「え」
「虎賀流闘術ッ」
振り向く前、耳に届いた言葉で身体が動く。
早く後方へ下がれと、頭の片隅で何かが叫ぶ。
「【破哮咆(はこうほう)】!!」
同時に鋭い衝撃が足元をふらつかせる。