私は、アナタ…になりたいです…。
背中をこっちに向けたまま、女将さんは大将のことを眺めていた。


昔話はもう終わったんだな…と思い、熱燗をくぃっと一杯引っ掛けて、カウンターの上に猪口を置いた。



「…私ね…子供が産めない体なんだよ…」


背中を向けていた女将さんの声がして顔を上げた。
取り上げようとしていた箸が転がって、コロコロ…と台の上を滑っていった。


振り返った女将さんの顔は、不思議と悲しそうじゃなかった。静かな笑みを湛えて、僕のことを見ていた。



「…20歳の時にね、子宮頸がんを患ったんだ。発見時にはかなり進行していて、子宮近くまでガンに侵されてた。子宮も卵管も全部取り除かないと、命の保障ができない…と医者に宣告された。…私はまだ学生で、青春の真っ只中にいたのに…」


自分の方に向き直り、落ちた箸を掴んで調理場の流しへ放り込んだ。
新しい箸を箸立てから取りだし、モツ煮込みの入った皿の上に乗せた。


「ショックでね……どうして自分が…と、散々人生を呪ったよ。家族や親戚、医師や看護師にまで当たり散らして、居た堪れなくなって病院を抜け出した。病院着のまま何処かで事故に遭って野たれ死にたいと思った。フラフラしながら道路に身を乗り出して、トラックに引かれそうになったところを、この人が助けてくれたの…」


この人と言う所で、大将を指差した。
女将さんの背中越しに酒を飲んでいた大将は、「そんな事もあったなぁ…」と呟いた。


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