私は、アナタ…になりたいです…。
「はい…今日はコンタクトを入れると目が痛くて……」


初めてとも思える会話を平気でしている訳ではなく、胸はドキドキしているし目は何処を見たらいいか分からない感じで、辛うじて赤いメガネの縁を見ることでごまかしていた。


「ふぅん。こうして見ると違う人みたいだ」


ニヤッと笑った唇の端が上がった。肉厚な唇が少しだけ薄くなって、でも返って色っぽさは増す。
私の心臓はそれを見て確実に跳ね上がり、皮膚の上から押さえたらその動きが分かるんじゃないか…と思うくらいの状態だった。


「す、すみません…私、急いでるので…」


押し迫った休憩時間の終了を思い出し、急いで立ち去ろうとした。
田所さんは前を塞いでいた自分の体を避け、道を開けてくれる。


「今度は気をつけて。怪我しないように」


優しい言葉と爽やかな笑顔で見送られる。
ぽぉ…となりそうな自分を抑えて、お財布の入ったミニバッグを胸に抱え込むようにして走り去った。


社食に向かう足が戸外になったのは、少し落ち着きを取り戻したい…と思ったから。
憧れてる人を間近に見てしまったお陰で要りもしない優しさを知った。


彼が注目される理由をどことなく理解できた。
あの丸っぽい声のトーンに合わせて見せられるスマイル。無意識なのか意識的なのか分からないリップサービスの数々。
それをあの短い数分で全部演出してしまえるなんて。


(さすがとしか言いようがない。やっぱり私の憧れの人だ…)


ビルの外へ出て太陽光に目を細めた。秋の柔らかい日差しを浴びながら、ほぅ…と短い息を吐く。

田所さんと交わした初めてに近い会話は、それから暫く私の心を潤わせた。

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