空蝉
3
あれはまだ、充が小学生の頃だったろう。
この広すぎる家で、いつまで経っても帰って来ない父を待ちながら、悔しさからなのか、それとも寂しさからなのか、母は人知れず泣いていた。
母がどんなに家を綺麗にし、美味しい料理を作って待っていても、帰って来ない父。
その頃にはもう、充も、父がよそに女を作っているということは、薄々気付いていた。
物心つくより前からあまり家におらず、ほとんど会話らしい会話すらしたことのない父なので、充は父にあまり興味がなかった。
だから、充は、母の冷たい手を引いたのだ。
「ねぇ、この家、出ようよ」と。
金がどうとか、これからの生活がどうとか、そんなことまでは考えられなかった。
とにかく、この家を出さえすれば、母はもう泣かないはずだと、充は幼いなりに思ったのだ。
しかし、母は充の手をほどいた。
「逃げたら負けてしまう」、
「あの人の思い通りになってしまう」、
「だから私は、たとえ死んでも離婚なんてしてやらないの」。
母の形相が鬼に見えるようになったのは、あの日からだったのかもしれない。
今の母は、意地が凝り固まってしまったのか、それともただ単に惰性なのかはわからないけれど。
それでも相変わらず、父とは別れる気はないままだ。
そして充もまた、この家に縛られているひとり。
エミと別れたからといって、何が変わったわけでもなかった。
涙さえ、流れなかったのだから。
虚しさ以外は、あの頃と同じでしかない。