優しい胸に抱かれて
 この短時間で私を落とし穴の底の底まで落としておいて、差し伸べられたものはちっとも手が届かないロープだった。

 ロープは見えているのに腕を伸ばそうが、爪先立ちをしようが、跳ねようが掠りもしない。

 それが部長らしくて、笑えない。


 タバコに火を点け、ナポリタンなんて注文した時点で大体のことは想像がついていたはずなのに。


 何が悔しいのか、とにかく悔しかった。

 言い返せなかったことだろうか。何かわからないものに過信している、あの余裕な態度か。

 勝敗なんてものはとっくに着いている。いつだって部長には勝てないし、勝てる気がしない。

 今更ながらに目頭に熱いものが込み上げてくる。それを出さまいと必死に閉じ込めた。


 不必要なことは考えまいと、必死で働いて、必死で忘れようとした。

 2年前のこの季節に、力を入れずに引っ張るとぷつりと頼りない糸が簡単に切れたかのように。あらゆる感情が切れてなくなった。

 形のない糸を裁ちきると、会社と家の往復だけの生活はさも当然かのように、全ての色を失った。


 忘れたはずだった。心の中から何もかも消えたはずだった。顔も、声も、仕草も。全部、忘れたはずだった。

 名前を聞いただけでこれじゃ、あそこまで部長が言いたくなる気持ちもわかる。部長のせいにして擦り付けたくもなる。


 わけのわからない間の2年って、どのくらいの時間が過ぎ去っていったのか、思い出せないというのに。


『それは覚えてるってことか?』


『部長が思い出させたんです』


 今ならすんなり言い返せたのに。言い返せてたらどうなってたか、それがまた想像できるから怖かった。

 どうせ、『俺が思い出させたんじゃない。お前が忘れていないだけだ』。って、すっぱりと止めを刺すんだ。

 何も言えなかったから、悔しさがこみ上げる。部長の言う通りあと1年あると。残り1年で忘れ切ってみせると心の何処かで言い聞かせていた。


 前川部長は施工管理部の部長。

 この株式会社ルミエールサプライに入社6年目を迎える春は、あの部長のおかげで穏やかに始まりそうもなかった。


 そんな部長に[なぽり]でとどめを刺された後、戻りたくもない会社に戻り、救いは決算月の繁忙期だったって事くらいで、他の余計なことを考えられないくらいに忙しく駆け回っていれば済んだ。

 家には適当にシャワーを浴びて寝るために帰る、それだけだった。
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