優しい胸に抱かれて
□記憶の一部
 頑丈な箱に閉じ込めた記憶が、アイスを買った時に入れられるドライアイスみたいに、静かに零れ空気に混じって流れて行く。

 時間を掛けて焦れったいくらい、ゆっくりと溶け出している。


『頑張れよ』

 白く靄がかった向こうから、形なく空中を泳いで飛んでくる、虚ろな夢に現れた見知らぬ声で目を覚ます。


 のそのそとベッドから這い出し、よろよろと洗面所へ体を滑らす。鏡には寝足りない様子で瞼は半分しか開いていない私が映し出されている。

 寝不足の反面、どこかとても淋しげだった。そんな辛気臭さをこれでもかというくらいに洗い流す。

 そんなことがもう2週間も続けば「また同じ夢…」と、溜め息混じりの声を漏らす。誰もいないのにバツが悪そうに眉間に皺が寄る。

 最近は顔すらなかなか思い出せなくて、ついこの間まで名前だって忘れていた。その最後の台詞だけは忘れられないでいる。

 やたらと耳にこびりついて、どんなに汚れの落ちるタワシでもクレンザーでも落とせる自身がない。


『それまでその精神力の弱さを何とかしておけ』

 あの日、部長から放たれた一言が、頭の中を駆け回る。


「…こんな夢見るって、やっぱり部長のせい?」

 顔を拭き上げて、鏡の自分に問いかけてみた。益々額に彫られた皺を中指でならしてみる。


 それとも、頑丈な箱じゃなく頑丈な金庫だったらよかったのだろうか。

 忘れたはずなのに、突如として見えない相手が私の心を支配しようとしている。

 顔も声も思い出せない相手に捕らわれている。


 あれから2週間経った今もなお、あの時の冷厳な態度をした部長の顔が脳裏に映し出される。

 タオルで顔を拭いさっぱりしたはずなのに、ずっしりと漂う靄は晴れないでいた。
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