優しい胸に抱かれて
「14時に出るなら、時間あまりないだろ?」

「…聞いてたの?」

「聞こえたの。作業場は隣なんだから、聞こえるよ」

「…サワイクラフトは何時からなの?」

「16時大通店。澤井部長が旭川から戻って来る時間に合わせて。平の運転だけど途中まで乗ってく?」

「…いい。行きながら教えたいことあるから」

「本当は紗希に一緒に打ち合わせ入ってもらいたいんだ。手芸に疎い男二人で会話を広げられない気がしてさ」
 
「…昨日の様子なら気にしなくてもいいと思うけど?」

 そこまで言って、しばらく無言で考える。昨日私が助けてもらった。困ってる時はお互いさま。


 だけど、これ以上関わらないようにしたいと思っているのも事実。

「気が向いたら同行するかもしれないけど、期待はしないで」

 そこで、敬語を使うのを忘れてしまっていたことにようやく気が付いた。散々会話を交わした後での謝罪だった。

「あ、…すみません。タメ口でした」

「だから、こだわってないって。…急に、敬語使われる方が困るから」

 本来は上司と部下。付き合っていたのは過去の事。この人はもう、関係ない人。

 口へと運んだスプーンを持つ手を止めて、見上げれば眉を下げて物淋しそうに私を見下ろしていた。


 上司として接しようとしている私に、これは惨いと思う。

「……」

「……」

 こんな彼の切なそうな顔を、過去に何度か見たことがあると、昔の自分が脳裏に浮かぶ。目尻を下げたまま彼は切なそうに笑って、「二人の時は敬語は無しで」と、重なった瞳を振り解いた。


 そんな顔しないで。じゃないと私はまた勘違いしてしまう。期待してしまう。

「…約束はできません」

 そう返した私に彼は返事をしなかった。
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