優しい胸に抱かれて
 残り香じゃなかった。真後ろから届いたものだった。

 外の空気と一緒に流れ込んできた香りだったようで、正面から突き進んでくる部長に睨みをきかせるのは当たり前だ。

「前川部長。おはようございます」

「おう、おはよう」

 部長は頭を下げたよっしーに軽く手を挙げると、今度は私の前で足を止めると嫌みったらしい笑みを浮かべる。

「おはようさん」

「おはよう、ございます…」

 悔しそうな顔を見せた私を、馬鹿にしたように見据えた部長は「ああ、そういえば」と、白々しく切り出した。

「…言い忘れていたが、就任は4月2日だが出社は今日からだってな。その様子は手遅れだったか?」

「…もう、遅いです」

 文句を言ったところで「俺は出社が4月2日だとは言っていない、お前の解釈の問題だ」と、平然と叩きつけられて終わりだ。

 唇を噛みしめる私を見て満足そうに笑いながら、背後にいるだろう人物に声を掛けに行く。


 挨拶を交わした2人は懐かしそうに、しかも大声でまるで私に聞こえるように話すのだから質が悪い。聞きたくなくても聞こえる上に、行き先は逃げ道のない同じフロアだ。

「元気だったか、工藤」

「はい、部長も相変わらずで。あまり部下を苛めない方がいいですよ?」

「まあ、趣味だな。お前も覚悟しておけよ」

「それは悪趣味、悪夢にうなされそう。その時はパワハラで訴えますから」

「何でもパワハラって言えばいいと思いやがって」

 振り返る勇気なんてあるわけがない。

 表情こそ見ることはできないが、楽しげに笑い合う2人を心底恨めしく思った。
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