優しい胸に抱かれて
その台詞に、封筒の束を胸に抱えたまま踵を返し走り出していた。出来るだけ遠くへ逃げたかった。
初めからわかっていたのに、なんで気づいちゃったんだろう。
好きってこと。
気づかなければやり過ごしていたのに、気づいてしまったから簡単に見過ごせなくなった。
『嫌い』って言葉がどこまでも追いかけてきて、長い廊下を辿り、とにかく走って一階まで降りた時。少し縒れてしまった封筒以外、鞄も何もかも持っていないことに気づきやっと足が止まった。
止まると、『嫌い』と、彼の静かに紡がれた一言が、全身にべたべたとガムテープを貼られたみたいに絡みついて、いつまでも離れなかった。
なんとか息を整え、走ってきた道をゆっくりと戻り、休憩所へ潜り込む。この時間なら絶対に誰もいないはず、だった。
ドアを開けると一番会いたくない人がいた。
開いた扉に気づいてこちらに視線を合わせた。つい顔を背けたくなって、下を向いた。
『随分遅かったな? 総務部で絞られた?』
『…はい』
自分の爪先に合わせた瞳を、持ち上げられずにいる私に『どうした?』と。
どこまでも優しい口調がとても苦しかった。
『ちょっと、怒られ過ぎ…たのかもしれません』
『仕事、だいぶ落ち着いてきたし、金曜だし今日はそろそろ上がってレイトショーでも行く?』
その言葉に驚いて顔を上げた。
合った瞳はやっぱり優しくて、つい数分前に『嫌い』って言葉を発した人とは思えないくらい優しかった。
だから余計に苦しくて、泣きそうになった。
『…柏木?』
『主任。私…、もう主任とは映画、行けません』
そう言って、また泣きそうになった。
『…そっか。わかった』
奥歯をぎゅっと食いしばる私は目を伏せる。開けていたら、涙が出そうだった。
だって、優しい瞳が、悲しそうな瞳に変わったから。切なそうな表情を見せるから。
何で、そんな顔をするのだろう。悲しいのは私なのに。ひどい。
逃げ込んだばかりだというのに逃げる原因になった人がいて、その場にいられなくなった私はまた別の場所を求めて逃げ出した。