優しい胸に抱かれて

その台詞に、封筒の束を胸に抱えたまま踵を返し走り出していた。出来るだけ遠くへ逃げたかった。

初めからわかっていたのに、なんで気づいちゃったんだろう。

好きってこと。

気づかなければやり過ごしていたのに、気づいてしまったから簡単に見過ごせなくなった。

『嫌い』って言葉がどこまでも追いかけてきて、長い廊下を辿り、とにかく走って一階まで降りた時。少し縒れてしまった封筒以外、鞄も何もかも持っていないことに気づきやっと足が止まった。

止まると、『嫌い』と、彼の静かに紡がれた一言が、全身にべたべたとガムテープを貼られたみたいに絡みついて、いつまでも離れなかった。

なんとか息を整え、走ってきた道をゆっくりと戻り、休憩所へ潜り込む。この時間なら絶対に誰もいないはず、だった。

ドアを開けると一番会いたくない人がいた。

開いた扉に気づいてこちらに視線を合わせた。つい顔を背けたくなって、下を向いた。

『随分遅かったな? 総務部で絞られた?』

『…はい』

自分の爪先に合わせた瞳を、持ち上げられずにいる私に『どうした?』と。

どこまでも優しい口調がとても苦しかった。

『ちょっと、怒られ過ぎ…たのかもしれません』

『仕事、だいぶ落ち着いてきたし、金曜だし今日はそろそろ上がってレイトショーでも行く?』

その言葉に驚いて顔を上げた。

合った瞳はやっぱり優しくて、つい数分前に『嫌い』って言葉を発した人とは思えないくらい優しかった。

だから余計に苦しくて、泣きそうになった。

『…柏木?』

『主任。私…、もう主任とは映画、行けません』

そう言って、また泣きそうになった。

『…そっか。わかった』

奥歯をぎゅっと食いしばる私は目を伏せる。開けていたら、涙が出そうだった。

だって、優しい瞳が、悲しそうな瞳に変わったから。切なそうな表情を見せるから。
何で、そんな顔をするのだろう。悲しいのは私なのに。ひどい。
 
逃げ込んだばかりだというのに逃げる原因になった人がいて、その場にいられなくなった私はまた別の場所を求めて逃げ出した。
< 177 / 458 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop