優しい胸に抱かれて
こんなに人数がいて仲良くしている部署でも、誰一人として下の名前で呼び合うことはなく、必ず名字で呼び合う習性があった。名前を知らない人だっているけれど、彼の名前を知らないわけがなかった。
何かのファイルだったり、プリントだったり、『工藤紘平』とその名前を見ただけで私の心は正直に反応していた。
『馬鹿にしたつもりはないんだけどさ、一応確認。一方的に好きになったのは俺の方が早かったからさ。名前、呼んで?』
少年のような悪戯っぽい笑みを浮かべた後に、穏やかな表情をされ躊躇いがちに口を震わせながら動かした。
『…こ、こ、こ』
『あははっ、ニワトリじゃないんだから』
『だって…』
ずっと、主任と呼んできて、いきなり名前となるとどう呼んでいいのか困惑する。紘平さんと呼べばいいのか。こうちゃんは馴れ馴れしいし。こうさんは変だし。紘平さん、紘平さんと。頭の中のイメージトレーニングでは何度も呼べている。
顔を見たら呼べそうにないと、彼の胸の中に顔を埋めた。それで、呼べるかといったら、きちんと呼べるわけがなくて声が上擦った。
『こ、こう、こう、へいさん…?』
『さん、はいらない』
『こ、こう、こうちゃ…』
『それは、紅茶』
『こ、こう、さん?』
『もう、ほんと。…俺の方が降参』
その降参じゃないのに、そう口を開けようと胸から顔を離す。それを言わせまいと、微笑んだ顔が降りてきてそっと唇が塞がれた。
『2人の時は敬語は無し、名前は呼び捨てでいいから。自然に呼べるようになるまで、ゆっくりでいいから…』
それから、彼の胸の中でうだうだとまったりとした時間を過ごし、遅い朝食兼昼食は、彼の作ったナポリタンとオムライスだった。
土曜日のこの日はずっと、彼の胸の中で力強い腕に包まれて過ごした。