優しい胸に抱かれて
休憩室を出て、席に戻ろうと作業場の入り口を抜けた時、放心状態で下を向いていた私は誰かとぶつかってしまった。
『ごめんなさい…』
相手を確認することなく、通り過ぎようとする私に降りかかったのはいつもの優しい声だった。
『…どうした?』
その声に顔を上げれば、眉尻を下げ心配そうな表情を落とす。
『主任…。何でもないです』
『体当たり、久し振りだな?』
ガラスパーティションに張り替えられてからというもの、見通しの良さからぶつかることはなくなって、言われてみれば久し振りだった。
『…よくぶつかっていたのは、あれはわざとだけどな』
『へ…?』
『少しでも接点欲しくて、わざとぶつかりに行ってた。これに張り替えられてちょっと淋しかった』
と、ガラスを拳で叩く。
『なっ、何で今になってそんな…』
出入りは気をつけるようにとよく注意されていたことを思い出し、驚く私の頭をぽんぽんと大きな掌が包む。
『それを思い出したのが今だからさ』
ぶつかることがなくなって物寂しさを感じていたこととか、頭の上に乗った温もりといい、気恥ずかしさで『…主任、仕事中です』そう言った私を彼は満足そうに笑った。
『あはは、わかってるよ。今日、早めに上がれそうだから一緒に帰ろう』
もう一度、軽く叩かれ視線を上に向け、頷いた。
『紗希が気にする必要なんかないよ、日下に言われたこと』
そう彼の方から切り出されたのは、彼の部屋のソファーで晩御飯を食べ終えた時だった。
『何で、その話し…』
『部長から聞いた。試験受けなかったのは前に話した通り。俺は紗希が邪魔だと思ったことは一度だってないし、それを言い訳に仕事を疎かにする気もなければ、仕事が忙しいから勉強ができないとも思ってない。紗希が自分のせいにする必要もないよ』
『だけど…』
『焦って全部手に入れようとしたって、どれもこれも中途半端になってどれも手に入らないなら、一つ一つ掴んでいくのが確実なんだ。紗希は紗希のペースがあるように、俺は俺のペースがあって、日下は日下のペースがある。あいつ程の野心があれば別かもしれないけどさ、俺はどうも受け身だから』
と、そこまで話すと彼は私の肩を引き寄せ、すっぽりと彼の広い胸の中に収まった。