優しい胸に抱かれて
 そう言うとファイルを閉じ、お味噌汁のカップを手につかつかと歩き出す。私の左横に静かに立ち、一番下の引き出しを開けたのと、私の声が漏れたのはほぼ同時だった。

「あっ…」

「…ざっと見積もって2年分ってとこか」

 そこには、書類だけじゃない。失敗したミスプリント、何度も書き直したデザイン画。何かの電話のメモ。島野さんの落書き。佐々木さんの施工手順書。いつからかため込んでる紙切れが、大きめのスペースに積み重なって溢れていた。


 こうしてなんでもかんでも取っておくから、本当に捨てたい[想い]を捨てられない。

 思い出したくないことが付帯して必ずつきまとってくる。


 作業していた席に戻った日下さんは、2個目のおにぎりに口を付ける。一口飲み込み、口を開いた。

「お前、工藤のことまだ好きなんじゃねぇの?」

 他人の口から言われて、悲しくなった。

 だけど、まだ好きなのかどうか、わからない。本当に好きだった、その想いが強かっただけ。


「…わかりません。ただ、色んなことがあったから…、忘れてないだけだと思います。日下さんはないですか? 忘れられないこととか…」

 日下さんはことあるごとに「女なんか面倒くせぇ」って言っていた。今でもそうなのだろうか。と、軽く聞いてしまったことに私はすぐに後悔した。


「…グレープフルーツサワー。一級建築士受ける前に別れた女が、よく飲んでたっけ」
 
「それって…」

 聞かなければよかった。日下さんの瞳が切なく伏せた。


「仕事と勉強ばっかで、仕事、仕事って言ってる割には安月給。将来があるか分からねぇ、養っていけるか分からねぇ。そんな俺に愛想尽かして、その女は俺の前に付き合ってた男んとこ戻った」

 その時の想いを思い出すかのように、一言、一言、噛みしめるように話す。

 
『グレープフルーツサワーなんて可愛いもの飲んでんじゃねぇよ。何で、お前だけシュワシュワしたもんなんだよ』

『みんなのもシュワシュワしてますよ。じゃあ、レモンサワーにします』

『そうじゃねぇよ』
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