優しい胸に抱かれて
 無造作に置かれたコンビニの袋にはまだおにぎりとお味噌汁が残っていった。日下さんは今日も泊まるのだろう。

「日下さん、ジャケットかけときますね」

「コーヒーこぼすんじゃねぇぞ」

「…こぼしませんっ」

 放り出されていたジャケットは皺を作ってくたびれていた。戻ってきたばかりで徹夜って。よっぽど仕事が好きなのか、それとも今でも日下さんは、過去に捕らわれて、過去の自分と戦っているのかも知れない。それは私も同じだった。

 
 休日を返上しても片づかない事務作業。とりつかれたかのように集中したってこの程度だ。ちらりと日下さんに視線を向ける。

 カチカチとマウスを操作している表情は真剣で、日下さんも何かにとりつかれたかのように作業していた。

「日下さん。私、先に帰りますね?」

「あぁ」

「待合いスペースの壁紙…、青より緑の方がしっくりきます」

 最新のシャンプー台のカタログと日下さんを残し作業場を後にした。


 通用口を抜け、外気に包まれる。春はまだまだ先だと冷たい風が教えてくれる。

 3月から4月、この季節は私にとってもっとも切ない季節。


『頑張れよ』

 最後の一言が耳の奥から聞こえてくる。

 
 結局、日下さんにゴミと言われても、引き出しの中身は捨てられなかった。

 忘れようとするあまり、最後に頑張れよって言われたから、頑張っていたことを。いつの間にか忘れていたことを思い出したら、捨てられなくなった。


 振り返り会社を見上げた。頬を抓るような冷たい風に鼻を啜る。

『いっつも泣きそうに困った顔してるからさ、皺になっちゃうぞ。ここ。皺が寄ってる』

『会社が見てる。ほら、しゃきっと背筋伸ばして、力抜いて』

 
 島野さん、日下さん。ごめんなさい。もう、しゃきっとできない。



『喚こうが、足掻こうが、そのまま潰れたければ好きにしろ』

 部長の捨て台詞に[逃げる]は入っていなかった。

 落とされた落とし穴の底の底で、私は辺りの土をかき集め山にして、踏み台を作った。ロープには手が届かなくて、踏み締めた土の山が崩れた。 
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