優しい胸に抱かれて
 日下さんが、そんなことするわけがない。そんなわけない、何かの間違いだ。そう思うのに、言葉が出ない。

 本当に日下さんじゃなくて濡れ衣なら、もっと反論したっていい。頭の中で絶対に違うとは言い切れない、良くない考えが過ぎった時。佐々木さんの口から名前を言葉にされ、意識が傾く。 

「柏木に何て言ったんだっけか? 図面を引かせてもらえないのは建築士じゃないだったっけか? あぁ、違うよな。デザイナーになれないなら現場だ、だったか…?」

「どうして、佐々木さんが…」

 それを知っているのだろう。

 そう言葉を続けられなかったのは、島野さんが何となく知っていたような口振りだったし、場面場面でみんなどこから情報を得たのだろうと、感じたことは今に始まったことではない。知っていてもおかしくはないと、思い直しただけじゃない。


 お互いが敵意を剥き出しにして瞳に感情を乗せ、激しい怒りが全身に広がり、勢いに呑まれたのもあった。これまで感じたことのない対峙する2人の威圧感に、この場を納めるにはどうしたらいいのか全く考えられない。


「全部お前のせいだ」

「俺じゃねぇって言ってんだろ…」

 首元を締め上げられ苦しさを滲ます日下さんは、怯むことなく手を伸ばし相手の胸ぐらを捕らえる。捕まれて佐々木さんが黙っているわけがなく、額に筋を縦に這わせ、声そのものに殺気を込める。

「ふざけんなよ」


 どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 呆然とする私の腕を彼はぐっと掴む。見上げると眉を少し下げ「大丈夫だよ、心配ない」って、深刻そうな表情で言われても説得力がない。それが通じたのかゆっくりと2人の元へ歩み寄る。

 どうにもならなそうな鼬ごっこを中断させようと、今にでも殴り掛かりそうな佐々木さんの腕を取り、止めに入った。

「佐々木さん、これ以上やると傷害罪で訴えられますって」


 それまで口を挟まなかった島野さんが、のんびりとした口調で話し始める。

「あいつの訴えるってのは口癖か? 火に油注いでどうする。あいつにだけは訴えられたくないな。なあ?」

 鈍くさいだの、のほほんとしているとはよく言われるけれど、私以上にのほほんとした島野さんの、平っちへと問いかける緊張感のない声が間に混ざる。
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