優しい胸に抱かれて
□鈍色の指輪
 翌日。朝から雨がしとしと降っていた。今日一日はこんな感じで夜には大雨になるらしい。薄暗く陽が入らない作業場が、雰囲気でさえも湿っぽいのは、天気だけのせいではない。


 昨夜は発注書やら指示書やらを散らかし、他に発注漏れになっていないかを片っ端から調べ尽し、話にあったドア枠だけだと判明した。

 私を送り遅くに帰った島野さんは出社しているものの、朝礼の時間になっても、佐々木さんは疎か、日下さんも、平っちの姿も、もう1人の姿もない。

 誰もが不思議そうにしている中、部長は気にも留めず朝礼をさっと終わらせた。


 お昼になって部長が「お先」と、一言だけ残し、まさかの帰社に吃驚する。ましてやこの状況で何も触れず、帰るという不可解な行動。いつもだったら口を挟むどころか、挑戦的な言葉の一つや二つ容赦なく投げつけてくるのに。


 私の大したことない直感が、何だか怪しい。そう睨むも、逸早く帰ろうとする部長なんかに今は構っていられない。


「おい、廊下を走るな。小学生かお前は」

 私に注意しているであろう声を振り切り、前を堂々と優雅に歩く部長を追い越した。よっしーからの呼び出しに総務課へと長い廊下を全力で走り抜ける。


 総務部のフロアに差し掛かった時、すれ違いざまで呼び止められる声に、反応した足が止まる。

 いつだったか思い出せないけれど、そんなに前ではなくて、昨日ではなく一昨日だったかもしれなくて。いつぞやの名前の知らない人が、近づいてくる。

「柏木さん? 走ってきてどうしたの?」

「あっ! あの…、えっと…、っ…」

 息が切れて上手く言葉が発せられない。そう、3月30日。一昨日のことだ。と、見上げて肩で息をする私に、心配そうな表情を落とす。


「大丈夫?」

「…はい、っ、大丈夫です。ごめんなさいっ…」

 てっきり商品部の人だと思っていたけれど、総務部の人だったんだ。目の前でバインダーを脇の下に挟んだ人物を見て、そう頭で納得する。
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