優しい胸に抱かれて
「たまには空でも見ろ」
隣に立った部長の差す傘に打ち付ける雨は、その声をかき消すほどの激しさ。
「…空?」
「もがいて、喚いて、足掻いて、それでも駄目だと思ったら空を見ろ。毎秒違う表情で俺らを見下ろしている。この空の下の何処かでこうしてる間も、必死にもがいて、足掻いている奴らで溢れてる。お前以上にだ。何度転んでも、立ち上がって前を向いていける」
言われて、雨で白く霞がかった空を見上げる。冷たい無数の雨粒が顔面にめがけて落ちてくるだけで、空は見えなかった。
「ったく。今じゃない、今見たって真っ暗だろ。取り敢えず、この傘を持ってろ」
「…はい」
「しっかり持てよ。お前は好きで濡れているからいいかもしれんが、俺は濡れたくないんだ」
そう言って、携帯灰皿で煙草を押し消した。吸い殻を処理したかっただけで、この紙くずのような扱いは雑というよりは無惨だと思った。
「送ってやるから乗れ。そんなずぶ濡れだと地下鉄だって乗車拒否だぞ。もたもたするな」
左の後部座席を開けると、夜の闇よりも黒く可愛げなど微塵もない車の中に、不思議なものが映り込み「そっちじゃない、助手席に乗れ」と、運転席から怒られた。
慌ててドアを閉め、助手席を開ければシートには用意万全と、新品のブルーシートが掛けられていた。きっと、このブルーシートは明日の朝、誰かに命じて現場で使われるのだろう。
走り出した車が加速する。少しでも動けば、シートがガサガサと大袈裟な音を立てた。
扱う態度はひどいし、人として接していないように見えるし。
3週間前に落とし穴の底の底に突き落としておいて、自らの手を差し伸べるのは部長らしいけれど。
不器用なのは部長本人だと思う。