優しい胸に抱かれて
「そんなに甘いわけないだろ。長島が5件ほど仕入れてきた案件は全部工藤にくれてやる。寝る暇があるのは今のうちだ。せいぜい、足掻けよ。ああ、それと。これだけは言っておく、有給なんてものは使わせないからな」

 いいのか悪いのか、優しいのか厳しいのか。どちらとも取れない業務命令を告げ「お先」と、部長は帰社するらしかった。

 
「よし、そろそろ1時間経つな。みんな戻ってくる頃だ」

「クリーニング代請求するからな」

 島野さんの気合の入った声に続いて、恨めしそうな日下さんの声が届く。身を潜めている私はバツが悪く、身を起こそうと顔を上げた。


 上着を浮かせて前にのめり、暗がりの中に顔を覗かせた紘平は、誰にも見られていないことをいいことに、私の額に口づけをする。

 雫が残る瞼を親指で払うと、両肩を掴かんだ。

「…紗希? 帰ろうか」

「どこに…?」

「俺んち。嫌だって言っても連れてく。支度してくるからちょっと待ってて」

 と、ジャケットを覆ったまま、ソファーに残された。離れていった温もりはすぐに冷え、体を震わせた。


 襲う寒気に、上着の隙間から上を見上げれば、不機嫌そうな眼差しを向けている日下さんがいた。

「鼻水…、つけてすみません」

「ひでぇ顔だな。顔も汚ねぇけど、涙と鼻水まみれでよく耐えられるなあいつは…」

 日下さんは私に掛けられていたジャケットを取り上げて、内ポケットから紘平の財布を取り出した。中から1枚の紙幣を抜いた。


 戻ってきた紘平はジャケットと財布を日下さんから取り上げ、袖を通しながら笑った。

「あはは。汚いとは思ってないからだろ。それ、クリーニング代にしては高くないか?」

「シッター代込み。安いくらいじゃねぇの?」

「ストックしてある背広貸す?」

「いらねぇ、俺も1着ストックしてる。忘れもん」

「何? この乾いた食べかけのおにぎりは?」

「そいつのだ、薬は飲ませた」

「そっか、…ありがとな?」

「…どういたしまして」

 後半の2人のやり取りを耳から耳へと流す。


 人には着替えをストックしておくなと言っておいて、自分だってしてるじゃない。

 だけど、2つのビジネスバッグの他に紘平が手に提げていた鞄に、乾いて引き攣る目を寄せた。
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