優しい胸に抱かれて
 ぽかんとしている私を立たせ、コートを羽織らせると「じゃ、お先」そう日下さんに告げた。

 3つのバッグを持つ反対側の腕で私の肩を抱き、みんなへの挨拶そっちのけであっという間に作業場が遠ざかる。


 廊下へ出れば、ひんやりとした空気が首元を掠める。覚束ない足取りに、身を寄せて視線を落とす。

「うーん…、何だか微妙だな。この大きな鞄はこの日のために持ってきたわけ?」

「そうなのかな…?」

 不思議なものでも見るようにじっと見入っていると、微笑んで聞こえてきた声に、多分違うと否定したい気持ちを抑え、そう答えた。


 車まで着くと、すでにスターターによってエンジンが始動してあった。暖まりかけている車内に私を押し込む。

 2人のビジネスバッグ以外に私の、2、3日困らない程度の着替えとアメニティが詰め込まれたボストンバッグを後部座席に置いた紘平は運転席に乗り込んで、また柔らかい笑顔を見せた。


 ゆっくりとアクセルを踏んで走り出す車さえも、優しさを帯びている。

「…彼女と、ドライブしたくて、乗り心地良い…、新車買ったの?」

「そんなこと誰から聞いた? 平? 島野さん?」

 前を向いている目が見開いて、驚いた声を上げた。


「どっちも…。彼女って、誰…?」

 聞くこと自体、おかしいのだろう。ちらっとこちらを見て顔を顰め、フロントガラスに視線を置いた。

「…誰って。紗希以外に誰がいるわけ? そっか、それで紗希はまた勘違いしてたんだ。これも、その彼女とやらとお揃いだと思った?」

 これ。と、左手の薬指を見せ、頷く私の頭に乗せた。じわっと目頭が熱くなる。


「ごめん、もっと早く言えばよかったな? そうしたら、島野さんもふざけなかったのにな…」

 かぶりを振る私に今度は「そんなに頭振ったら、気持ち悪くなっちゃうぞ?」と、頭をシートに押さえつける。


 例えば、旭川の帰りにでも話ができていたら、また私は自分の想いも、紘平の想いも大事にできていなかったんじゃないかと。みんなに感謝しようと。

 音楽もラジオの音もない、しなやかなエンジンの回転音が響く暖まった車内。助手席でうとうとしながら無言で前を向き、時折、困ったようにこちらを伺う横顔を見つめていた。
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