優しい胸に抱かれて
 住宅街の片隅、駐車場の入り口を何の迷いなく進入していくから、他人の体のように重たい身を起こす。車は吸い込まれたかのように線と線の間にぴったりと収まり、エンジンが止める。

「ここ…」

 鞄を手に、助手席のドアを開けた紘平は「俺んち」と、当たり前なことを言って私の腕を取った。


 当然のごとく、手慣れた様子でエントランスでオートロックを解除し、郵便受けを覗きダイヤルを回す。私はこれの開け方を知っている。

 到着し乗り込んだエレベーター、私は気づくと8のボタン押していた。

「引っ越し、…してなかったの?」

 私の声は聞こえていたはずなのに、紘平はそれに返すことなく階数表示を黙って見つめていた。


 8階の角の扉の前。鍵が開く音を聞き、まだ部屋にも入っていないのに、何故だか涙が流れた。

 寝室に私を押しやって、クローゼットを指さした。

「先にその窮屈なスーツ、着替えて。紗希のものはそのままにしてあるから…」


 上手く返事ができなかった。私が最後に出て行ってから、まるで時が動いていないみたいに。

 本当に、何もかもがそのままだった。サイドテーブルの写真立ての前に置かれた、リボンがついた鍵を除いて。全てがそのままだった。


 適当な部屋着を引っ張り出し、袖を通す。冷たい感触に思わず身を震わせる。着替えを済ませ扉を開けると、すぐ側に立っていた紘平は私をリビングの真ん中へと連れて行こうとする。

 瞳に映るソファー相手に私の足は嫌がっていた。


 息苦しさを増すほどの動悸が激しく打ち付ける。竦んで一歩も踏み出せない。

「すぐにでも寝かしてやりたいんだけど、ちょっと付き合って…、紗希。大丈夫だから…」

 私がこんなに嫌がって泣いている理由を知っていて、それでも腕を引っ張って行こうとする。
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