優しい胸に抱かれて
こうして飛び出して来ては3人でコーヒーを飲んでいたこともあって、妊娠したと連絡をもらっていたが、産む前に絶対来るだろうなと、用意しておいて正解だった。


「デカフェありますよ、飲みますか?あ、でも…」

ごにょごにょと口を動かす紗希は、いくらノンカフェインとはいえ、体に悪影響なのかどうなのか。みたいなことを言っている。

そんな気遣いは無用で、飲みたがった姉のためにコーヒーを淹れた紗希は落ち着くことなく、身だしなみを整えたあと。

「デカフェは飲んだことない」と言いながら、自分の分と俺の分のマグカップをテーブルに置いた。


「よくバスの時間あったな?」

「友達が札幌遊びに行くって言うから、乗せてもらったのよ」

休日、田舎を走るバスの本数は少ない。よっぽど、急いで出て行きたかったのだろう。

しょうがない、聞いてやるか。そう情けをかけた言葉を述べる。

「今回は何があったわけ?」

「んー、子どもの名前。女の子なんだけどさ、良が[糸]がつけばなんでもいいんだろって」

「で?」

「で。[紗希]でいいじゃん、って」

聞いたのは俺だけどさ。このタイミングでそういうことを言うから。ほら、見ろ。

ポチャン。紗希が手にしたクリームの容器がカップに落ちた。お見事である。


動揺するのは無理もない、俺だって2度見したくらいだ。

口を「あ」の形のままでいる紗希のカップと、自分のカップをさっと取り換える。


「漢字まで一緒なのよ。どうよ?」

「どうよ、って…。真綿で首を絞められる感じ。としか言いようがないだろ」


いや。蛇の生殺しの方が、例えとして合っている気もする。


今、隣に紗希がいてくれるからいいようなものを。

側にいてくれなきゃ俺が困るわけで。もちろん、そのつもりだったし。だけど、でも…。

もしも、俺のそばに紗希がいなかったとして。紗希が別の誰かとくっ付いて、自分から離してしまった後悔と、叶わない想いをずっと抱えていたとして。

姪っ子に付けられた名前が[紗希]だと、呼ぶことがないまま俺は一生を遂げていただろう。


怖過ぎるだろ、それは。


「そうでしょ?何考えてるのよ、ほんとにっ!」

思い出して興奮した姉はテーブルを叩く。ガラスが割れそうな勢いだったが、咎める理由が見つからない。


今回ばかりは綾が正しい。良さんの味方になってやれないわ、ごめん。
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