優しい胸に抱かれて
 会社を出てすぐ、背後で名前を呼ばれ急ぎ足を止めた。


「柏木!」

「…前川部長、お疲れ様です」

 すぐに前川部長だと気付き、振り返り際に挨拶をし素早く頭を下げた。

 頭を上げると立たせた短い髪に散らつく雪を乗せ、スラックスのポケットに両手を突っ込んだまま近寄ってくる、いつもの部長の姿を捉える。


「飯か?」

「はい。部長もですか?」

「そう、珍しくな。どこ行くか決まってるのか?」

 部長はすでに歩き出していて、いや、そもそも立ち止まってはいなかったが。そう聞いておきながらとっくに私の前を通り過ぎていた。


「はい、いつものところですけど。部長はコンビニじゃないんですか?」

「まあ、今日は柏木に付き合うか」

「え…?」

「何だ、俺じゃ不満か?」

「いえ…」

 歩くのが早い部長に着いて行くのがやっとな私は、珍しい言葉に驚いて足が止まりそうになる。

 反射神経がよく、立ち振る舞いがスマートな部長は、人一人がやっと歩ける程度の幅しかない歩道上、行き交う歩行者の足跡が残り雪で狭くなったそこを、手前から歩いてくる人を見事なまでに綺麗に避けて歩く。

 私はといえば、避けきれなくて人が歩いた痕跡のない端っこ、積もり積もった雪に足を突っ込む始末。ブーツの中に入り込んだ雪はすぐさま溶けて足先がかじかみ感覚がなくなる。

「トロい! 置いて行くぞ」

「…とっくに置いてかれてます」

 部長は振り返ることなくすたすた歩いていく。ただでさえ歩きにくいのにあたふたしながら、会社のすぐそばにある大衆食堂とコンビニを追い越して、通りを右に曲がった裏通り。目立たない場所に潜める行きつけの洋食屋を目指す。
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