優しい胸に抱かれて
 色々な策を捻出した結果、仕方なく申請書を記入して部長のところへ持って行く。出来ることなら顔は合わせたくはないのだけれど、他の方法が見いだせなかった。

 二課の作業場を通り過ぎたフロアの奥、揃いのパーティションで区切られただけの空間が、個室とは呼べない部長室。

 うちの商品のロッカー、ラックや飾棚やらの什器はエグゼクティブ用のそれなりに高級そうなもので統一されている。ところどころ邪魔しない程度に装飾物に観葉植物が置かれている。

 ところが使っている机と椅子は私たちと同じ、オフィス用の白のスチール机と一丁前に肘掛が付いているだけのオフィスチェア。

 これにはきちんと意味があった。[初心を忘れない為]という前川部長らしい理由。


 椅子をぎぎっと鳴らした部長は、差し出した書類に一目すると途端に怪訝そうに拒絶を示す表情を生みだした。

「社用車使用申請書? どんな理由だろが却下だ」

 会社の車を使用する際にはこの社用車使用申請書を提出し、決済を貰うことになっていた。

 自分にも他人にも厳しい部長は、見もしないで申請書を突き返す。「あ、やっぱり」と、案の定の答えに心の中で納得した。

「ですが…」

「お前ね、誰がペーパードライバーに車貸す奴がいる?」

 引き下がらない私にまともな意見。私がペーパードライバーだってことは全員が知っていた。もちろん、申請書を書いたのは今回が初めてのことだった。

「何度か運転したことはあります。高速に乗れば時間は掛かりません」

 何とか認めて貰おうと言葉を並べ立ててみる。が、そう簡単にごまかしが通用する相手ではなく。

「時間が掛かるだとか、そういうことを言ってるんじゃない。初心者以下の奴に車は貸せないって言ってるんだ」

 呆れた表情を見せ大きく溜め息を吐いた部長は、小さく「お門違いだ、馬鹿が」と悪態をついた。


「この繁忙期にミスだけはするなとは言ったけどな、もし俺がお前に車の許可を出したとしよう。お前がその状態で事故でも起こせば、全てが終わりだ。これは解るよな?」

「解ってます」

「じゃあ下がれ」

「嫌です」

「今、返事しただろうが。…あのな、何度も言わせるな。外注の傭車でもチャーターでもヘリコプターでも何でも頼め」

 その場凌ぎの言葉の綾に、ヘリコプターはどうやって手配すればいいのだろうと、ふと脳裏を掠める。
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