優しい胸に抱かれて
 大きな溜め息を吐きたくなった。だが、大きな溜め息を吐いたのは彼だった。

「…あの大きい鞄は何?」

「え?」

 立てた親指で後部座席を指し示す彼は、眉を寄せた。指の先を見ると私が持ち込んだボストンバッグが座席に転がっていた。

「あれは…、着替えですけど?」

「いや、それはわかるよ。そうじゃなくて、どっから出てきた?」

「どっからって…。帰れない日があったりした時用に会社に置いてあった着替えのストックです」

 不服そうな横顔に、何がそんなに気に入らないのかわからず、不思議そうにそう答えると、益々彼の目元の皺が深くなった。

「…着替えを、しかも会社にストックしておくなよ。帰れないってどんな状況なんだよ?」

「状況…、ですか? 気づいたら終電がなかったりとか、気づいたら3時だったとか、ですけど…?」

「そうじゃなくて…」

 呆れた様子で溜め息を吐かれた。


「終電までにはちゃんと帰れよ」

「はい…」

 無理なんてしていない、仕事をしていれば楽だから、とは言えなかった。

 素直に返事をしたのは、それは上司として注意しているのか、元カレとして言ってくれているのか、わからなかったから。

 また息を吐き出したくなって、堪えるように肩を竦めた。

「紗希? ところで、…ヘリは論外だけどさ。傭車やチャーターじゃなくて、タクシーって案は浮かばなかったわけ? 荷物のサイズは分かってたんだから、あの程度の段ボールならトランクに積んでくれるだろうし、長距離だから運転手も嫌な顔はしないだろ?」

「…タ、クシー?」

 言われて、「あっ、その手があったんだ。馬鹿みたい」と、心の中でそう思った。


 開いた口が塞がらないとはこのことを指すのだろう。現場に迷惑を掛けないようにと必死だったあまり、そこには頭が働かなかった。

 駅には必ずといっていいほどタクシー乗り場がある。週末、夜のすすきのではタクシーが二重、三重へたすれば四重の列を作っている。
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