優しい胸に抱かれて
 ということはもちろん部長は、他にタクシーという方法があることに気づいていたのだろう。気づいていてそれを口にしなかったのはどういうことなのだろう。

 まさか、この状況は意図的な計画的犯行、とか…。

 部長のあのいけしゃあしゃあとした顔が浮かび、開け放した口をなかなか閉じることができないでいると、また彼はふっと笑ってこちらにちらっと視線を流す。

「終電逃したってタクシー呼んで帰ればいいんだし、会社に泊まるって発想にはならないだろ? そういうとこ、紗希らしいけどさ」

「降りる…」

「…ここは道央道。高速乗ったばかりだから降りられません」

 息を吐いた彼の左の眉が持ち上がり、呆れているのが見て取れた。


 そうだった、高速道路だった。ついさっき、きちんと標識まで確認していながら、それすらも頭から抜けてしまうって。どうかしてる。

「降りてもタクシーなんていないだろ、それに後続車に轢かれちゃうぞ? 無事に荷物届けるんだろ? 大人しく乗ってなさい」

 穏やかな口調で聞き分けのない子供に言い聞かせるようなことを言う。


 降りると言ったのは、降りてタクシーに乗り直したかったわけじゃない。この空間から逃げ出したかったからだ。

 私のことをよく解っていて『そういうとこ、紗希らしい』って言葉にしたんだと思う。けれどそう言われ、トクンと心が揺れたのに気づいたから、咄嗟に『降りる』なんて口走っていた。
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